2019年5月25日土曜日

芦田氏館@北佐久郡立科町芦田

芦田氏館跡と芦田城
芦田城からの竪堀が古町の集落に至った箇所に、居館があったものと推定されている。」(立科町誌)
芦田城に拠った芦田氏の居館であったろうと推測されているが、その関わり方は不明である。芦田氏に関しては芦田城を参照。
「立科町誌」のいう竪堀とは(エ)の長大な堀のことを言っていると思われる。

「長野県町村誌」によれば、居館は御屋敷と呼ばれ、東西一町、南北二町の規模で三面に堀があったといい、明治十年当時は人家となっている。南に大きなムロの木があって、この枝を切れば祟りがあるといわれ、この木の下に石祠、剣の井、お茶の井などがあったという。
御屋敷の北を坪の内といい、方一町の塁の跡が残っていて、坪の内の西北の隅には大きな桜の樹があって、その下に祠がある。
西の方に建石というところがあり、畑の中に三大石がある。その西の高地を高卒塔婆というが其ものなしという。
北は古御堂長宝寺の廃跡があり、坪の内より東北を上下王庭といって平地があり、続いて御局屋敷、高屋敷、籏屋の地名があるという。

(エ)の長大な堀の開口部。ここから南側が御屋敷ということらしい。
(エ)の堀の開口部付近から南をみる。
この辺りが居館区の最北端ということになるか。

「信濃の山城と館」では、芦田川の右岸一帯で、東西100m、南北300m余にわたる地域に含まれていて、その中心になる所は土屋武司氏の屋敷のあたりと考えられるとしている。
(ア)と(ウ)の堀が土屋氏屋敷の裏側に延びており、二重の堀となっていたのではとあり、館を囲んで土塁塔があったと思われるが今は見当たらないという。
同書にある、明治初年に越前芦田氏より入ったちえが松平春岳よりもらって来たと云う柿の木とは写真左側の木であろうか。
集落の北端の「御屋敷」地名は下屋敷で、「長野県町村誌」にある地名の多くは失われてしまったが、建石は現存しているとある。

土屋氏屋敷の裏側北東隅には窪地に見えるところがある。(ア)と(ウ)の二重の堀が延びていたというがその名残か。
そうすると、土屋氏屋敷の南側の道が三面の堀の一つだったかもしれない。
土屋氏屋敷を中心とした50m四方強が芦田氏館の中核と推測できるか。

上段の石垣は土屋氏屋敷のものと思われるが、どのくらい古いものかはわからない。
南の大きなムロの木は屋敷内のことと思われるが、それらしき巨木は見当たらない。たとへ剣の井、お茶の井は埋められたとしても石祠は残っていてもよさそうだが無許可で侵入もできないので調査はしていない。
因みに南西の光徳寺横に蓼科神社里宮があるが、鳥居の横には神代杉という超巨木があり、この地の古さを感じられる。

「長野県町村誌」の文言から、御屋敷の北の坪の内とは下屋敷のことのように思えるがどうか。西北の隅の大きな桜の樹は無くなっているらしいが、祠もやはり残っていないのか。
坪の内より東北を上下王庭といって平地がありと言うのは、大庭遺跡付近のことであろう。さらにその先に御局屋敷、高屋敷、籏屋の地名があるというが、古御堂長宝寺の廃寺跡は大庭遺跡の西の高台の墓地周辺らしいので、高屋敷、籏屋は廃寺跡から北に延びた高台では想像する。
西の方の建石は畑の中に三大石は、民家の裏に現存し案内板もある。
その西の高地を高卒塔婆とは字の如くで、墓碑所の類いが在った所と思われるが何も残っていないというので未調査。


芦田城のところで書いたが、公民館の前の道から竹林を抜けて城への登路があったとされている。(オ)の堀は芦田川まで延びていたかもしれない。
ここが居館区の内で最南端の位置といえるか。


芦田城の案内板等、一説には依田光徳が城を再建し居館は芦田川を挟んで芦田城に相対して築かれていたとある。
「立科町誌」でも、(エ)の竪堀の付近を言っているようなので、おそらく、中屋敷・下屋敷と云われるところを言っているように思える。屋敷という名の地であるからその位置にも屋敷があったのであろう。
ここでいう芦田氏館が上屋敷で、中屋敷、下屋敷があるという認識でよいであろうか。
西の方には西屋敷というのもあって、公民館前の道と一直線の位置である。

光徳寺から見た古町集落と芦田城。
光徳寺は、文明年間(1469~1487)に芦田城二代城主芦田右衛門太郎光玄が父の芦田備前守光徳の追福のために建立したものという。裏山には芦田氏の墓地がある。
ただし、寺の裏山一帯は光明寺遺跡というので、依田系芦田氏の入る前には光明寺なる廃寺が在ったのかもしれない。
廃寺というと、前出の北にある長宝寺廃寺もあるが、いつの時代のものかはわからない。
因みに滋野系芦田氏に関わるとされている寺に山辺の津金寺がある。

今回の来訪は芦田城が目的だったで書籍等の情報に頼った記事になった。いずれ再訪して現地を歩いてみたい。


2019、5月初訪

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