祭神は高皇産霊神、配祀は大己貴命、木花開耶媛命。
蓼科山山頂にある奥社の祭神は高皇産霊神・倉稲魂神・木花開耶媛命。
「本宮は(奥宮)は蓼科岳頂上にあり、三代実録に陽威天皇の元慶2年7月16日の條に蓼科神に従王位下を授けた記述がある。 伝説には武居夷神が領土を諏訪大神に譲って蓼科山に登ったとか、小雄命東夷征代に来た時奉斎したとか、坂上田村慶が当社修理したとか言われる。里宮 延喜式内社英田神社とも言う。 推古天皇の12年に奉斎すといはれる、中世社領三千余貫を領したこともあるが、だんだん衰微し、寛永年中当村今井治兵衛なる者奪励し、現状に再興せりと」(長野県神社庁HP)
「日本三代実録」陽成天皇元慶二年(878)七月十六日の条に「信濃國正六位下蓼科神授従五位下」と記され、この蓼科神は現在の蓼科神社であろうと推測されている。
蓼科山には高井山、飯盛山、御供山、黒斑山、女ノ神山など多くの別名があり、明治8年に蓼科神社と改称される以前には、高井大明神、飯盛神、八王子権現、八塩権現などと云われてきたという。
里宮の創建年月は不明であるが、こうした史料からかなり古いことが想定されている。
芦田古町を流れる芦田川は雨境峠周辺を湧水源とするが、律令が制定される前の古代東山道が佐久地方を通っていたと言われている。
雨境峠には通過したしるしとして「鳴石」など幾つかの祭祀遺跡が残され、一帯からは滑石製の勾玉などが多く出土し、「勾玉原」とも呼ばれている。
雨境峠には通過したしるしとして「鳴石」など幾つかの祭祀遺跡が残され、一帯からは滑石製の勾玉などが多く出土し、「勾玉原」とも呼ばれている。
中央鳥居と右の石柱は「蓼科神社」、左手は「立科嶽里宮」とある。
鳥居の右側には高井稲荷。
「神代杉」(別名高井明神の杉)
蓼科神社の御神木という。3度の火災によって梢を消失しながらも、今なお枝の一部が青々と茂り、樹高20m、幹周り約10m、樹齢は1,500年を超えると言われている。
鳥居の右側には高井稲荷。
「神代杉」(別名高井明神の杉)
蓼科神社の御神木という。3度の火災によって梢を消失しながらも、今なお枝の一部が青々と茂り、樹高20m、幹周り約10m、樹齢は1,500年を超えると言われている。
神代杉。
社叢といおうか、森。
狛犬。
狛犬のところの右手奥に上総神社がある。
戻って、狛犬の左側には石祠。
振り返る。
畑をはさんだすぐ北側は光徳寺。
狛犬のところの石段を上がると長い石段がまっているが、中央の八角形の石はなんであろう。用途不明であるが本殿横にも似た形状のものがあり、そちらは水盤とおもえる。
左手には天満宮、右手には愛宕神社。
石段の途中には用水堰がよこぎっている。
拝殿。
本殿。
拝殿右側の建物は舞台のようなので神楽殿的なものか。
拝殿南側に橋があり、奥には天照皇大神宮が祀られている。
ところで、この橋が架かっている切岸は湧き水の造形として不自然におもえる。古い用水などの決壊の跡か、城館等の掘割の形跡ではとも考えられ気になる存在であるが、裏の道路までは達していないようなので違うかもしれない。
境内の北の道路付近も無理やり見れば掘割の形跡ではと思われる微形状であるが、裏の道路の反対側までは達していないかもしれない。
機会があればもう少し付近を調査したい。
境内裏のさらに道路西の際には焼けた古木が祀られ、石造の柵に囲まれた「蓼科神祠碑」の石塔がある。これは元来ここに蓼科神社里宮が在ったことを意味するものであろうか。
左の石塔は確認していない。
光徳寺の裏山で、字光明寺であり寺院跡が想像され、写真はないが南側は姥ヶ懐で姥ヶ懐屋敷の存在が想像されるが文献等の裏付けはない。
この尾根一帯は宗教色が強い。
2019,5月初訪
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