2018年12月11日火曜日

弾正塚宝篋印塔@上田市真田町傍陽穴沢

上洗馬神社から穴沢集落を北へ登ったところに松の巨木がある。
これが「穴沢弾正塚の一本松」で樹齢約五百年という。
「鳥が羽を広げたような…」と言われたらしいが、平成26年にに左の枝が折れてしまったという。筆者も以前撮った写真があるはずだがデータがみつからない。

巨松の袂には「弾正塚宝篋印塔」が建ち、これは室町初期の応永十年(1403)建立で、半田弾正の墓塔と伝えられている。
半田弾正の墓とする真偽はわからないが、穴沢には半田家が多く末裔であるのかもしれない。

真田町には、貞治六年(1367)銘の実相院の宝篋印塔、貞治五年(1366)銘の中原宝篋印塔、応永十年(1403)銘の弾正塚宝篋印塔の三つの古い宝篋印塔がある。
実相院と中原の宝篋印塔は、信濃南朝勢力の衰退した時期であり、その関連が考えられるだろうか。
弾正塚宝篋印塔は、応永七年(1400)の大塔合戦の三年後、応永十年(1403)細川兵庫助慈忠が幕府代官として善光寺横山に入り、村上、大井、伴野、井上、須田氏などが
細川兵庫助慈忠が幕府代官として善光寺横山に入った連合して幕府の措置に抵抗したが、そうした幕府支配に抵抗したものに関わるか。


弾正塚宝篋印塔
応永十年(1403)十月十八日の刻銘がある。笠が三階になっているが、第一階の笠から立っていた相輪が失われたあとに、別の小宝篋印塔の笠を一個積み重ねたもので、これを除いて指定した。以前から半田弾正の墓塔と伝えられている。中原地蔵堂と実相院の二塔と共に、上田地域における室町時代前期の記年銘のある三大宝篋印塔で、貴重なものである。

穴沢弾正塚の一本松
目通り周囲四,二五m、樹高約二十m、枝張り東西約二十七m、南北約二十m、樹齢約五百年と推定されるアカマツで、宝篋印塔の創建時に植えられたと推定される。上田小県地方のアカマツの大木として貴重な存在である。


以前は半田弾正云々の説明板があったと記憶しているが無くなっていた。

宝篋印塔。

左の石塔。

右の石灯篭。



傍らには「半田弾正信久600遠忌」の石碑が建っていたが、半田弾正信久の出典が無く、どういった人物かはわからない。
郷土史家である宮島武義氏は著書で、信久の信の字が真田家に代々受け継がれている事に何か因縁があり、真田信綱は洗馬姓を改名した半田一族の者である。といったようなことを記していたと記憶するが、もしそうならば真田氏と半田氏は同祖ということになろうか。

以下参考に引用。
「大型で塔内が中空の宝篋印塔は「一結衆」による集団によって造立された場合が多い。勧進僧の仲介により念仏講などに結縁したり、一族で結衆した人々が集団で造塔するもので、塔内の空洞を蔵骨器と考え、亡くなった人から遺骨の一部や遺髪・爪などを随時投げ入れるものである。その意味では逆修供養塔の性格をもつ。
14 世紀後半から15 世紀前半までに盛行したようで、その後個人の供養塔や墓塔に変わっていった。 一結衆の造塔である旨の銘文や、結縁した人々の道号・戒名の結縁交名があり、それと知ることができる。 貞治6年(1367)銘の実相院宝篋印塔(長野県宝・上田市真田町)は、塔身に「一結□衆」の 銘文を刻む。高さ2mを超える安山岩製の大型塔で、住職の話では中は空洞になっているという。
真田町には実相院塔と類似した大型の宝篋印塔に、貞治5年(1366)銘の中原宝篋印塔(「大檀那道教」銘)、応永10 年(1403)銘の弾正塚宝篋印塔(伝半田弾正墓)の2基がある。内部の空洞や一結衆によるとの銘文は確認されていないが、集団による造塔ではないかと考えられる。
千曲市若宮の佐良志奈神社宝篋印塔(砂岩質凝灰岩製塔)には永和2年(1379)の年紀と「契約結衆四十五人」の銘文を刻む。長野市・善光寺の 応永4年(1397)銘の善光寺宝篋印塔(西塔・凝灰岩製)には、結縁した21人の連名が刻まれている。
今回の調査で中北山五輪平の宝篋印塔と 明科塔ノ原法音寺の宝篋印塔が一結衆による造塔と判断された。 五輪平塔は銘文はないが中が空洞であり、法音寺塔は中が空洞で、基礎に「沙弥□□」「沙弥□□」と刻まれた結縁交名が読める。ともに14世紀後半の製作と考えられ、中世石塔が希薄な中信地区においても、時代の流行であった集団造塔が行われていたことを示す貴重な例が確認できた。」(松本市四賀地区の中世石造物 ―殿村遺跡調査事業に係る調査報告書― 発行日 平成29年3月31日 発行者 松本市教育委員会)




斜め後ろから。赤松の太さが際立つ。
平成26年に折れた枝は太い部分で直径約1メートル、長さ約15メートルというから驚き。


2018、12月再訪
2018、12月「半田弾正信久600遠忌」の項追記

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