金縄山実相院観音寺。
創建は神亀2年(725)、行基により開かれたという。
元の位置は山の北西、奥宮とされる「堂平」という所で霊応山慈済寺実相院といったらしい。大同元年(806)、坂上田村麻呂将軍東征中、角間渓谷の「毘邪(ひや)王」という鬼を馬頭観音の霊験により捕らえ、鉄縄で縛ったことから金縄山慈済寺実相院と山号を改称し、この地に移ったという。
本尊の馬頭観音は鎌倉時代(1185頃 - 1333)初期のもの。
実相院には、明治の神仏習合で明治の廃仏令で廃寺になったとき、山家神社別当寺であった白山寺の本尊だった木彫りの十一面観音像が遷され所蔵されている。
応永3年(1396)の落雷、天文年間(1532~1555)の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失。寛保2年(1743)に当時の上田城の城主松平伊賀守が本堂を再建している。
懸造の観音堂は天明3年(1783)に移築再建されたもので20年間の歳月がかけられたという。
門柱。
金縄山の記❨縁起❩
当山は神亀二年、僧、行基法師の建立と伝う。本尊馬頭観世音、字峯山の奥、保科に通じる「堂平」は奥の院にして、霊応山慈済寺実相院と呼ぶ、坂上田村麿将軍、東征のみぎり角間の岩窟に鬼賊「毘耶」を観音の御加護により刑しこの山下に埋む古墳あり。
「毘耶」の後生善処のため延命地蔵尊を安置す、将軍鉄縄をもって「毘耶」を縛せしにより金縄山観音寺実相院と改む。
「堂平❨どうだいら❩」「多寒平❨たかんだいら❩」=高平=より将軍寺院をこの地に引下す、時に大同元年なり、1150年前。
応永三年落雷のため炎上、天文年中、兵火により、ことごとく、焼失す、その后、承平二百、寛保二年上田城主松平伊賀守本堂再建、天明三年西陵岩上に広壮静寂美の舞台造りの観音堂を移築再建二十有余年間の才月を経て寛政十二年入佛供養終了、焼失の堂跡を蓮池と成し今日に至る、開創神亀二年より昭和五十年に至るまで法燈1251年、住持の世伝、六十六代なり、境内より南方なに佐久平をはじめ立科、八ヶ岳の裾の彼方に富士山が展望される閑寂な観音霊場なり、❨宗教法人天台宗比叡山末実相院❩
境内の主なる堂、塔、碑、老樹
鬼松鬼石の古墳、宝篋院塔、法華一宇一句塔、当山縁由記碑、一茶句碑、延命地蔵堂、鐘楼堂、英霊殿、?住霊園、神代杉、桜の老樹
元の位置は山の北西、奥宮とされる「堂平」という所で霊応山慈済寺実相院といったらしい。大同元年(806)、坂上田村麻呂将軍東征中、角間渓谷の「毘邪(ひや)王」という鬼を馬頭観音の霊験により捕らえ、鉄縄で縛ったことから金縄山慈済寺実相院と山号を改称し、この地に移ったという。
本尊の馬頭観音は鎌倉時代(1185頃 - 1333)初期のもの。
実相院には、明治の神仏習合で明治の廃仏令で廃寺になったとき、山家神社別当寺であった白山寺の本尊だった木彫りの十一面観音像が遷され所蔵されている。
応永3年(1396)の落雷、天文年間(1532~1555)の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失。寛保2年(1743)に当時の上田城の城主松平伊賀守が本堂を再建している。
懸造の観音堂は天明3年(1783)に移築再建されたもので20年間の歳月がかけられたという。
門柱。
金縄山の記❨縁起❩
当山は神亀二年、僧、行基法師の建立と伝う。本尊馬頭観世音、字峯山の奥、保科に通じる「堂平」は奥の院にして、霊応山慈済寺実相院と呼ぶ、坂上田村麿将軍、東征のみぎり角間の岩窟に鬼賊「毘耶」を観音の御加護により刑しこの山下に埋む古墳あり。
「毘耶」の後生善処のため延命地蔵尊を安置す、将軍鉄縄をもって「毘耶」を縛せしにより金縄山観音寺実相院と改む。
「堂平❨どうだいら❩」「多寒平❨たかんだいら❩」=高平=より将軍寺院をこの地に引下す、時に大同元年なり、1150年前。
応永三年落雷のため炎上、天文年中、兵火により、ことごとく、焼失す、その后、承平二百、寛保二年上田城主松平伊賀守本堂再建、天明三年西陵岩上に広壮静寂美の舞台造りの観音堂を移築再建二十有余年間の才月を経て寛政十二年入佛供養終了、焼失の堂跡を蓮池と成し今日に至る、開創神亀二年より昭和五十年に至るまで法燈1251年、住持の世伝、六十六代なり、境内より南方なに佐久平をはじめ立科、八ヶ岳の裾の彼方に富士山が展望される閑寂な観音霊場なり、❨宗教法人天台宗比叡山末実相院❩
境内の主なる堂、塔、碑、老樹
鬼松鬼石の古墳、宝篋院塔、法華一宇一句塔、当山縁由記碑、一茶句碑、延命地蔵堂、鐘楼堂、英霊殿、?住霊園、神代杉、桜の老樹
参道と六地蔵。
境内左右。金縄学校跡碑。
本堂。
一茶の碑と池。これが焼失の堂跡という蓮池か。
碑はよく読んでないがおそらく、古池や蛙飛び込む水の音…かな。
新しそうな石祠。
古そうな石祠。
戦没者慰霊殿。
謎の釜。
大杉。これが神代杉か。
鬼松地蔵堂。
毘邪王を縛った松、埋めたとされる鬼石を祀ったものという。
鬼賊「毘耶」を観音の御加護により刑しこの山下に埋む古墳あり。という鬼松鬼石の古墳がどれなのかわからないが、鬼松地蔵堂のこの場所ということか。
天明3年(1783)に移築再建という懸造りの観音堂は必見。
さて、「堂平」という所、真田町教育委員会の地図でみると結構な山奥である。
これは推測で検証はしていないが、当地域の横尾・曲尾の中世の城館近くに寺院があるように、洗馬城・堀の内屋敷跡の近くに現実相院があることから、実相院は洗馬城・堀の内屋敷が造られるとともに現地に移ったとするのが自然なのかと思う。1400年の大塔合戦に横尾・曲尾・実田の名が見えることからそれ以前ではあったろう。
洗馬城参照。
萩の館(堀の内)参照。
古刹であることに違いないだろうが、行基により開かれたと云う追慕による伝承は全国の至る所にある。
また、大同元年(806)の坂上田村麻呂将軍東征もいかにもな話しであり、やはり東日本に多い。
大和朝廷による蝦夷征討は「天武系」から「天智系」へと皇統が移ったことの正統性主張と権威誇示の意味合いもあったともいわれ、大同年間を開基とされる説の寺社が各地に多いのも、大和朝廷による蝦夷征討を経たことによる何か一つの時代的な区切りを意味していると言うことなのだろう。
鬼とされる毘邪王についても、朝廷に従わない輩を指すものとするのが妥当であり、伝承の「鬼達を率いて村人に悪行の限りを尽くしていた。」とは勿論限らないわけで、安曇野に伝わる「八面大王」が盗賊として描かれる反面、民を救おうとした英雄としても描かれるように、概ね鬼退治伝説は大和朝廷による旧時代の制圧、支配を意味するものと考えてよいものと思う。勝者の歴史に埋もれたそれは先住の民族だったかもしれないし、またその文化のことであったのかもしれないという事である。
毘邪王の根城は角間渓谷の岩屋とも鬼ヶ城ともいわれているが、渓谷への入口付近には真田氏に関連するとされる松尾古城跡や日向畑遺跡があり、諸説ある真田氏発祥の地とされるうちのひとつである。
その真田氏の出自は大伴氏を祖とするという説もあり、毘邪退治はその朝廷勢力である大伴氏による旧勢力の征服であった可能性もある。大伴氏は馬をもって畿内に威を張った豪族で、信濃の牧経営にも関わると推測されているからである。
伝説で「田村麻呂は毘邪を都に連行しようとしたが、あまりに泣き喚くので…」とあり、それは馬を飼う技術(者)を持ち去ろう(掌握しよう)とする意図と受け取れる。泣き喚いた毘邪は鉄縄に縛られたまま埋められてしまう。
真田町には馬牧に関わると思われる地名が多くみられ、古代の国牧ではとの推測がなされていて、実相院本尊の馬頭観音も地域の馬牧経営を示唆するものとされている。
この実相院のある洗馬周辺こそ真田氏発祥の地であるとされる所以の一である。
馬頭観音の信仰の起源がいつかはわからないが、実相院本尊の馬頭観音は鎌倉時代(1185頃 - 1333)初期のもの。また「日本最古の明確な造像例は石川豊財院の木像で,11世紀の作と推定される。」(ウィキペディア)ことから推察するに、毘邪退治伝説は早くても平安後期以降に馬頭観音の霊験として併合創作されたのではないかとおもう。
勿論、古代の国牧ではとの推測がなされている真田地域に早期からその土壌があったものなのであろう。
もう一つ。
馬を飼う技術は渡来系の技術であり、製鉄もまた渡来系の人達の技術である。
この地域が古代の牧があったなら鉄との関わりもありだろう。
諏訪大社の伝承「洩矢神の鉄輪を武具が建御名方神の藤の枝により鉄輪が朽ちて敗北した。」の意味するのは製鉄技術の新旧交代という説もある。
「毘邪を鉄縄で縛った」鉄縄とは何を意味するのであろう。
鉄をもたない毘邪が鉄により負かされた。あるいは諏訪の洩矢神のように旧い鉄が新しく強い鉄によって征服されたことを示唆しているのかもしれない。
但し真田地域の製鉄を物語るものは、十世紀代(平安時代)の境田遺跡、四日市遺跡の小鍛冶遺構で、鉄滓などが出土し同遺跡出土の鉄製農具との関連を指摘されているのみであり、六世紀末前後の古墳時代後期とされる住居跡や古墳群からは鉄製品は出土するものの、製鉄の痕跡は指摘されていない。
週刊上田の「石船と女神」(滝沢きわこ)中で「古代朝鮮語」による地名等の解明に触れており非常に興味深い。
2007年4月21日号「石船と女神・おはなしと解説」中、真田町の鬼伝説にふれ
「坂上田村麻呂将軍が、丸子町の鬼窪(荻窪)から鬼沢(神川)を通り角間(真田)の「毘耶(ひや)」という鬼を退治したそうな。その時、田村麻呂将軍、鬼を縛ったのが鉄縄だそう。
地名も、菅平のスガは鉄磨ぎと読める。真田は鉄生みの地。長と書いて「お(を)さ」は、韓国語で大きな存在を表すウサ・ウシ・ウス。日本に来て「をさ」という大和ことばになったとされる。一方、をさ・うし・うすは丘鉄(鉄鉱石)のことだが、砂鉄まで含む「鉄」全般を指称する語であったと言われるのは、李寧熙先生である。」
(注・李寧熙先生とは東京出身の韓国人作家、『もう一つの万葉集』著者。)
(中略)、
「鬼(鍛冶師)を金縄で縛ったとの伝説の地、傍陽の実相院境内で風化した花崗岩を発見した。花崗岩の中に砂鉄はほぼ遍在しているそうである。洗馬(鉄の場の意と考える)川の地名もあることから、ここも名だたる鉄処であったことがうかがえる。」
と締めている。
この「石船と女神・おはなしと解説」は面白いので「石舟神社」の項あたりでもう少し取り上げたいと思っている。
また、未見だが「鉄こそ歴史だ!!真田の強さは鉄にあり」(宮島武義氏著)という古代朝鮮語から歴史を紐解く試みた郷土本があるらしく一読したいと思っている。
2017年初訪。
2019、11月再訪。写真追加。一部追記。
境内左右。金縄学校跡碑。
本堂。
鐘つき堂。
碑はよく読んでないがおそらく、古池や蛙飛び込む水の音…かな。
実相院宝篋印塔 |
実相院の宝篋印塔。
貞治6年(北朝年号、1367)3月の陰刻がある。この宝篋印塔は「堂平」より一段低い「高寺」にあったという。それを明治初年に現参道入口の付近に移し、さらに昭和初期本堂前の現位置へ安置したという。
新しそうな石祠。
古そうな石祠。
戦没者慰霊殿。
謎の釜。
大杉。これが神代杉か。
鬼松地蔵堂 |
毘邪王を縛った松、埋めたとされる鬼石を祀ったものという。
鬼賊「毘耶」を観音の御加護により刑しこの山下に埋む古墳あり。という鬼松鬼石の古墳がどれなのかわからないが、鬼松地蔵堂のこの場所ということか。
観音堂 |
さて、「堂平」という所、真田町教育委員会の地図でみると結構な山奥である。
これは推測で検証はしていないが、当地域の横尾・曲尾の中世の城館近くに寺院があるように、洗馬城・堀の内屋敷跡の近くに現実相院があることから、実相院は洗馬城・堀の内屋敷が造られるとともに現地に移ったとするのが自然なのかと思う。1400年の大塔合戦に横尾・曲尾・実田の名が見えることからそれ以前ではあったろう。
洗馬城参照。
萩の館(堀の内)参照。
古刹であることに違いないだろうが、行基により開かれたと云う追慕による伝承は全国の至る所にある。
また、大同元年(806)の坂上田村麻呂将軍東征もいかにもな話しであり、やはり東日本に多い。
大和朝廷による蝦夷征討は「天武系」から「天智系」へと皇統が移ったことの正統性主張と権威誇示の意味合いもあったともいわれ、大同年間を開基とされる説の寺社が各地に多いのも、大和朝廷による蝦夷征討を経たことによる何か一つの時代的な区切りを意味していると言うことなのだろう。
鬼とされる毘邪王についても、朝廷に従わない輩を指すものとするのが妥当であり、伝承の「鬼達を率いて村人に悪行の限りを尽くしていた。」とは勿論限らないわけで、安曇野に伝わる「八面大王」が盗賊として描かれる反面、民を救おうとした英雄としても描かれるように、概ね鬼退治伝説は大和朝廷による旧時代の制圧、支配を意味するものと考えてよいものと思う。勝者の歴史に埋もれたそれは先住の民族だったかもしれないし、またその文化のことであったのかもしれないという事である。
毘邪王の根城は角間渓谷の岩屋とも鬼ヶ城ともいわれているが、渓谷への入口付近には真田氏に関連するとされる松尾古城跡や日向畑遺跡があり、諸説ある真田氏発祥の地とされるうちのひとつである。
その真田氏の出自は大伴氏を祖とするという説もあり、毘邪退治はその朝廷勢力である大伴氏による旧勢力の征服であった可能性もある。大伴氏は馬をもって畿内に威を張った豪族で、信濃の牧経営にも関わると推測されているからである。
伝説で「田村麻呂は毘邪を都に連行しようとしたが、あまりに泣き喚くので…」とあり、それは馬を飼う技術(者)を持ち去ろう(掌握しよう)とする意図と受け取れる。泣き喚いた毘邪は鉄縄に縛られたまま埋められてしまう。
真田町には馬牧に関わると思われる地名が多くみられ、古代の国牧ではとの推測がなされていて、実相院本尊の馬頭観音も地域の馬牧経営を示唆するものとされている。
この実相院のある洗馬周辺こそ真田氏発祥の地であるとされる所以の一である。
馬頭観音の信仰の起源がいつかはわからないが、実相院本尊の馬頭観音は鎌倉時代(1185頃 - 1333)初期のもの。また「日本最古の明確な造像例は石川豊財院の木像で,11世紀の作と推定される。」(ウィキペディア)ことから推察するに、毘邪退治伝説は早くても平安後期以降に馬頭観音の霊験として併合創作されたのではないかとおもう。
勿論、古代の国牧ではとの推測がなされている真田地域に早期からその土壌があったものなのであろう。
もう一つ。
馬を飼う技術は渡来系の技術であり、製鉄もまた渡来系の人達の技術である。
この地域が古代の牧があったなら鉄との関わりもありだろう。
諏訪大社の伝承「洩矢神の鉄輪を武具が建御名方神の藤の枝により鉄輪が朽ちて敗北した。」の意味するのは製鉄技術の新旧交代という説もある。
「毘邪を鉄縄で縛った」鉄縄とは何を意味するのであろう。
鉄をもたない毘邪が鉄により負かされた。あるいは諏訪の洩矢神のように旧い鉄が新しく強い鉄によって征服されたことを示唆しているのかもしれない。
但し真田地域の製鉄を物語るものは、十世紀代(平安時代)の境田遺跡、四日市遺跡の小鍛冶遺構で、鉄滓などが出土し同遺跡出土の鉄製農具との関連を指摘されているのみであり、六世紀末前後の古墳時代後期とされる住居跡や古墳群からは鉄製品は出土するものの、製鉄の痕跡は指摘されていない。
週刊上田の「石船と女神」(滝沢きわこ)中で「古代朝鮮語」による地名等の解明に触れており非常に興味深い。
2007年4月21日号「石船と女神・おはなしと解説」中、真田町の鬼伝説にふれ
「坂上田村麻呂将軍が、丸子町の鬼窪(荻窪)から鬼沢(神川)を通り角間(真田)の「毘耶(ひや)」という鬼を退治したそうな。その時、田村麻呂将軍、鬼を縛ったのが鉄縄だそう。
地名も、菅平のスガは鉄磨ぎと読める。真田は鉄生みの地。長と書いて「お(を)さ」は、韓国語で大きな存在を表すウサ・ウシ・ウス。日本に来て「をさ」という大和ことばになったとされる。一方、をさ・うし・うすは丘鉄(鉄鉱石)のことだが、砂鉄まで含む「鉄」全般を指称する語であったと言われるのは、李寧熙先生である。」
(注・李寧熙先生とは東京出身の韓国人作家、『もう一つの万葉集』著者。)
(中略)、
「鬼(鍛冶師)を金縄で縛ったとの伝説の地、傍陽の実相院境内で風化した花崗岩を発見した。花崗岩の中に砂鉄はほぼ遍在しているそうである。洗馬(鉄の場の意と考える)川の地名もあることから、ここも名だたる鉄処であったことがうかがえる。」
と締めている。
この「石船と女神・おはなしと解説」は面白いので「石舟神社」の項あたりでもう少し取り上げたいと思っている。
また、未見だが「鉄こそ歴史だ!!真田の強さは鉄にあり」(宮島武義氏著)という古代朝鮮語から歴史を紐解く試みた郷土本があるらしく一読したいと思っている。
以上寺伝から妄想を広げ、備忘録とあるように勝手なことを書き連ねたが、実相院が毘邪や朝廷勢力にどのように関わったのか。また地域の氏族との関係など、整合性を図れるよう多面的に研究を続けられたらと思う。
2017年初訪。
2019、11月再訪。写真追加。一部追記。
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