2017年9月3日日曜日

長國寺と真田信之霊屋@松代町

曹洞宗(本山:大本山永平寺、大本山総持寺)

長國寺本堂
「天文16(1547)年、信濃国の在地領主であった真田幸隆が、畏敬する伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として松尾(現・)城内に「真田山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ)」を建立しました。その後、永禄7(1564)年に松尾城外へと移され、本格的な禅寺として諸施設を整えました。江戸幕府が開かれると、幸隆の孫にあたる真田信之は上田藩主となりますが、元和8(1622)年の松代移封にともなって現在の場所へと移転し、寺号も「長國寺」(國は国の旧字体)と改めて、今日にいたっています。」(長國寺HP)

長國寺の総門
 「真田家の菩提寺として創建され、歴代松代藩主の墓所でもあった長國寺には、真田一族ゆかりの寺宝が数多く残っています。長國寺と最も深い縁で結ばれた真田家の人物が、初代松代藩主であった真田信之です。講談や小説で英雄的に描かれた父・昌幸や弟・信繁(幸村)の影に隠れてしまいがちですが、戦乱の世で真田家を守り抜き、明治まで続く松代藩真田家の礎を築いた真田家最大の功労者といえるでしょう。明治5(1872)年の大火での焼失を免れた「初代松代藩主真田信之公の霊廟」は、往時の真田家の繁栄を彷彿とさせるきらびやかな造りで、国指定重要文化財に指定されています。霊廟の裏手にある歴代藩主の墓所は、大名の墓としては決して宏壮なものではありませんが、真田家300年の歴史を語るように静寂な佇まいを見せてくれます。」(長國寺HP)

長國寺本堂

元和八年(1622)、信之は幕府に命じられて江戸へ上がり、松代への移封を言い渡された。
上田への帰途、鴻巣宿から家臣出浦対馬守に宛てた信之書状で、松代への移封を喜ぶ一方、追伸で「我らはもはや老後に及び、不要なものと思うが、上意であるというので、子孫のためにも命令にしたがい松代へ移ることにする」と心情をのぞかせ、上田の家臣に対して心配することのないようにと案じている。(資料で読み解く真田一族より改編)

何代にもわたって守り抜いてきた先祖伝来の地を去るに当たり、信之は多くのものを松代へ移している。
この寺も、天文16年(1547年)に真田幸隆が建立した真田町長の長谷寺を移して菩提寺としたもので、幸隆や昌幸の墓のある長谷寺を末寺としている。


開山堂
 もとは三代真田幸道公のために享保12(1727)年に建てられた御霊屋。明治5年(1872)に同寺が伽藍諸堂を焼失したため、同19年(1886)本堂再建の際、この霊屋を現在の場所に移築して開山堂としたものという。



初代藩主真田信之公御霊屋
 万治3年(1660)に建立された松代藩祖・真田信之の御霊屋(おたまや)。桁行3間、梁間4間の入母屋造り平入り、屋根は柿葺き(こけらぶき)の壮麗な建築で、いたるところに透かし彫りや丸彫りが施され、なかでも正面の唐破風の雌雄の鶴は左甚五郎作と伝えられる。内部の格天井には狩野探幽筆と伝わる天井画、奥に禅宗様仏壇を据え、現在は信之公と小松姫御夫妻の位碑を安置しているとのこと。国指定重要文化財に指定。
左甚五郎作と伝わる雌雄の鶴


四代真田信弘公御霊屋
 真田信之御霊屋の南隣に並ぶ、四代・信弘の御霊屋(おたまや)。建立は元文元年(1736)。方三間の宝形造り、柿葺き、装飾は唐草の透かし彫りだけと簡素な造りで多少傷んできている。現在は歴代藩夫人らの位牌が安置されているとのこと。県宝に指定。

真田家墓所入口

真田家墓所

真田信之公の墓
鳥居があるのは神格化されたものか。

江戸中期(八代将軍吉宗の時代と説明されていたと記憶、石塔裏に建立銘があったが写真に収めなかった)に建立された昌幸、幸隆、信綱の供養碑。
近くに、大正3(1914)年に十一代当主真田幸正によって建立された真田幸村父子の供養碑もある。


 松代藩六代藩主・真田幸弘の時代に藩政改革を行い、宝暦12(1762)年に46歳で没した恩田木工民親の墓所があるが、写真は撮り忘れた。

長國寺墓所
境内の墓地は、小山田家累代の墓など真田家臣の墓も多く、宝篋印塔の乱立する光景は威圧感がある。
不謹慎ながら、時間のある時にじっくり歩いてみたいものである。


2017年8月初訪

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