2018年12月11日火曜日

上洗馬神社@上田市真田町傍陽字上平


御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
秋葉大神(あきはおおかみ)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
創立は不詳です。応永元年(1394年)とも、享禄四年(1531年)諏訪神社の分霊をうつし祀ったものともいわれています。旧上洗馬村の産土神です。元正元年(1621年)に再建の記録があり、また天正年中(1573年~91年)真田昌幸公より洗馬郷の高辻の内、永弐百文除地社附せられ、元和八年(1621年)8月仙石越前守が上田へ入部以来社寺領の改革がありましたが、明治3年10月社号を上洗馬と改称しました。なおここには戸隠信仰があり、干ばつの時には戸隠神社から御水をいただき神前に捧げ降雨祈願したといいます。また、奉納年代は不明ですが「黒馬と白馬」「赤馬と白馬」などが描かれた絵馬が奉納されています(長野県神社庁HP)

諏訪神社の分霊をうつし祀ったものともいわれるとあるが、建御名方も八坂刀売の名もないのは不思議。

鳥居。

拝殿。
「黒馬と白馬」「赤馬と白馬」の絵馬も見える。


本殿。
写真では判り辛いが、かなり豪勢なつくりだと思われる。


鳥居両脇には旧鳥居と思われるものが。

鳥居横の石塔類。

手水舎も見所のひとつ。





本殿後ろに大きな切り株と「御神木之碑」が建っている。
ここに目通り周囲9メートル、樹齢約千年と推定される欅の巨木があったそうだ。昭和五十七年八月一日の台風で基幹を残すのみとなったいう。


享禄4年(1531年)諏訪神社の分霊を勧請(かんじょう) して祀り、明治3年に上洗馬神社と改称した。以前存在し た社叢(しゃそう 神社の森のこと)は欅(けやき)の巨木 を主体としたもので社前に大木が4本あり、最大の木は目通り周囲8.2m、樹高約30mに達し、樹齢は推定800年と推定されていたが現在はその面影を残すのみである。(真田三代 傍陽コースより)

本殿裏の石塔群。

穴沢集落。


中央奥の穴沢集落。右の山間は三島平で半田入谷川が流れる。

宮島武義氏の著書「真田の強さは鉄にあり」の中で、鉄と白山神と諏訪神のかかわりについての例として挙げたなかで、真田郷の半田一族は製鉄神である諏訪神と同じ梶の葉紋を用い、褐鉄鉱を御神体とした古くからの製鉄一族とし、「明治3年半田家の氏神を祀る半田大明神を穴沢周辺の氏神として上洗馬に改名した際、半田一族が半田大明神の織旗を建てたことに対し、他の一族から抗議があり半田一族は窮地に立たされましたが、山家神社と共にあった白山寺が半田側の正当性を上申したことにより、ことなく収まったとする書面が残されており、半田家と白山寺の深い繋がりが推測されます。また、廃仏毀釈の際には白山寺の本尊の十一面観音像(菊理姫)が半田家の菩提寺であった金縄山実相院に移されたことからも、そうした関係を読み取ることができます。さらに、上洗馬神社の末社である三島神社から出たとされる白山神の身正体は、元々半田家にあったものといわれています。」とあり、諏訪神社の根底には白山神があるのではないかとしている。
前後の脈絡があるのだが上洗馬神社に関わる部分だけ転載した。

つまり、誤解を恐れず言うなら上洗馬神社は半田大明神であり、弾正塚宝篋印塔半田弾正信久の名が伝承されていることから、恐らく半田大明神は半田弾正信久ではとも推測できる。
享禄四年(1531年)諏訪神社の分霊をうつし祀ったというのに、建御名方の名も八坂刀売の名もないのはその為かもしれない。
また、白山神と深い繋がりがあったということで真田氏との関係も想像できるのは面白い。


穴沢集落と左の森が上洗馬神社。奥に穴沢弾正塚の一本松が見える。

穴沢弾正塚の一本松弾正塚宝篋印塔



2018、12月再訪
2018、12月同日半田大明神の項追記


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