大日堂は元々は「古大日」という地籍にあったが兵火で焼失し(天文・永禄年間1532~1569)、延宝7年(1679)に長命寺別当「小林院勧化沙門清尊」の発願により現在の地に移されたという。
また別当である長命寺は創立当時(天延三年(975))は新張牧奈良原の聖地にあり、鎌倉時代(1185頃 - 1333)の初期に現在地に移転し12坊を擁する大寺院であったが、天文年間(1532~1554年)に兵火により多くの堂宇が焼失し衰微し、江戸時代に領主である松平家の庇護により再興したという。
「江戸時代初期(延宝七年 1679年ころ)の建築物で、長野の善光寺、甲府の善光寺に関係の深いお堂で道内に本尊・大日如来像のほか、善光寺三尊型式の仏像が安置されている。昔は西宮の「古大日」地籍あったのが、のちに現在地に移されたと言われている。今は長命寺が別当しているが、古くは長命寺の小林院が管理してきた。 大日堂は江戸時代から明治初期まで旧九月二十八日が縁日であった。 通称「祢津の柿祭」とも云われて大変賑わい甲州・上州あたりから侠客の親分衆が集まり、賭博などが開催されたと伝えられ、布引観音の祭りとともに東信地方で著名な祭りであった。 現在は桜の季節の四月二十八日に改められている。」(案内板)
また堂内には算額が掲げられ、幕末期のこの地方の和算文化を知ることができる。
関流の始祖で算聖とあがめられた関孝和(1624~1708年)によって算額は始められ、各地に流布したという。
古大日の五輪塔郡。
元の大日堂はこの辺りにあったとされている。
元の大日堂はこの辺りにあったとされている。
百体観音堂には西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所霊場の計百体の観音様を奉っている。
江戸時代末頃のものという堂内の百体観音。
三霊場巡礼をしなくてもここで百ヶ所巡礼したことになるという。
石尊大権現(神奈川県伊勢原市大山:大山阿夫利神社)で、拝殿内には祈祷や祈願の際に持ち帰った数多くの木製の刀が奉納されている。
農耕豊作の雨ごいの祈願をするため、天明元年 (1781)から今日に及ぶまで納められてきた 約 160 本の大小さまざまな木刀であるという。
石造西国三十三観音像
コマ回し式回り舞台や「せりあげ」を持った舞台で農村歌舞伎がおこなわれた。祢津には西宮と東町に舞台があり「舞台飾り見るなら西宮、芝居見るなら東町」と言われ 相互に競いあったそう。
現在も地元の小学生たちで歌舞伎上演が続けられ伝統芸能の継承がされている。
東町歌舞伎舞台に隣接する日吉神社。
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