2018年6月1日金曜日

花古屋城@上田市山口


村上連珠砦群
花古屋砦・花小屋ノ城・花小屋畑・花小屋城・花隈城とも。
村上連珠砦群のひとつで、東に山口集落をはさんで豊城。その東に大久保集落をはさんで柏山城。さらに東に金剛寺集落をはさんで戸石城がある。
西側の尾根には牛伏城・荒城等、和合城まで連珠砦が群がる。
周辺城塞群の中では大きいもので、一説に花隈某の関わるところという。
村上連珠砦群参照。
豊城参照。
柏山城参照。
砥石城参照。
花隈氏参照。
花古屋城
東斜面は黄金沢に落ち込む急斜面となっている。
西麓にの地名があり、どのあたりかで墓石が出たという話を聞いたことがあるが花古屋城に関連するであろうか。

右の鉄塔辺りから尾根添いが城域となるらしい。

登山口脇の谷。確認はしていないが、登山路の左に度々現れるので、(ケ)の竪堀の延長で間違いないと思う。

 また、登山路の右手にも細い水路の様な堀が度々現れるが、それが(コ)の堀が延長したもので高速道路側斜面に落ちている。
 つまり、登山道は七丁丁石付近まで二条の竪堀の間を縫うようにして登っているということになる。

七丁丁石
七丁丁石祠傍に脇道がある。城跡は驚くほど目の前。

これが(ク)の竪堀。登山口まで続いている。

主郭の切崖と大堀切。
ここからでも一部石積が残っているのが見えるが、花古屋城は石積を多用した山城で、本来は主郭を全周していたであろう石積がかなり残っている。
村上時代に重要拠点であったろう砥石城に石積が少ないのをみるに、花古屋城は後の真田氏によっても重要視され改修を受けたものかも知れない。
その場合、真田氏がここを重要視した理由は何であろう。
「上田小県誌」では、主郭を中心とした石積は整然とした平積であり、塩田城虎之口井戸なの石積とほぼ同手法と思われ、村上氏の太郎山支配(天文期)に関わる構築と推測されるとある。

太郎山の西稜線は虚空蔵山(城)を経て和合城に達し、北は坂城と真田をつなぐ芝峠、大道山(堂叡山)に通じる。因みに、さらに先の和平は唯一車で越えられる峠である。
芝峠は坂城の村上氏が洗馬攻めに使ったという峠であるが、太郎山の裏を下り坂城の南条に降りれたのではとも思う。
戦国期は和合城のある岩鼻は坂城と上田の難所で、松代街道の地蔵峠や室賀峠が北信地域への主道だったらしい。
今のところ確証はないのだが、太郎山からは坂城と松代のどちらにも通じる古道(恐らく芝峠に合流)があったのではなかろうか。
改修が行われたとしたら「天正壬午の乱」天正10年(1582)の頃、天正11年に上田城が築城されるまでの間で、飯綱城など共々に北信を掌握した上杉に対する備えの城の一つとしてではなかったか。

花古屋城
相変らず雑だが描いてみた。
「信濃の山城と館」と大きく違うのは、同所に載っていない先端付近だが、先端部は本来は黄金沢まで落ち込んでいたはずで、必然大手は西に開けることになると思われる。


いきなり一番の見所も何なので大堀切の北側(鉄塔の方)を探索する。
大堀切(オ)内部。

西側は竪堀となって落ちている。

竪堀の上部は二重堀(カ)となっている。

大堀切越しに見た主郭。

(キ)の竪堀。ある意味三重の堀ともいえる。

右側が摺鉢状の(ク)の堀切。

登山道も含めて(ク)の堀切になるようだ。延長線上にある(ク)の竪堀上部にあたる。


(ウ)の堀切の西側にある土塁。東側の堀と連動すると思われる。

鉄塔周辺。

(ケ)・(コ)の堀周辺。登山道の三叉路になる。


(コ)の堀。最北の堀であり、。(ク)の堀ともども黄金沢まで貫く竪堀で、もしかしたら上部の登山道もそうであったかも知れない。


北側の遺構はこのくらいで主郭まで戻る。

北の大堀切から見た主郭切岸。

大堀切内の西側に周る道に石積らしき跡があった。古いものかは不明。上から崩れたものかもしれないが用途があったものかも知れない。

主郭を全周していたと思われる石積郡。

特に虎口とされる付近の石積は興奮もの。

花古屋城主郭
主郭部図。複雑だったので描いて脳内で修復してみる。

虎口か。

虎口前の細い腰郭。柵があったものか。

虎口前の桝形。


北側土塁上から見た主郭。



土塁上部。

土塁東側隅周辺。土塁上への登り道のようでも、小郭のようでもある。

土塁西側隅周辺。

井戸跡ともいう窪み。

主郭西側には口が開いている。

主郭から見た虎口。

主郭から見た腰郭状の郭とその下の2の郭。

2の郭から見た南東隅の斜面。竪堀状の切岸で南北を遮断しているように思える。

う、場所失念。


2の郭の最西隅。

2の郭の最西隅にある二段の石土塁状の石積。ここで北南を遮断しているようだ。


2の郭の最西隅の西斜面。自然の巨石が竪堀のように谷を形成している。


2の郭の最西隅付近の石積。

2の郭の石積。


3の郭から4の郭を見下ろす。

3の郭の石積。

4の郭。
4の郭から見た3の郭切岸。

5の郭。
6の郭の(エ)の堀。

(エ)の堀の南側に郭状の土塁があり2つの郭を構成する。


(ウ)の堀。
この下に4段の郭、腰郭がある。
(ウ)の堀下の段郭。



堀(イ)から堀(ウ)まで細長く続く腰郭。


(イ)の堀。
この下にはっきりしない削平地含め9段程の郭がつづく。
(イ)の堀下の段郭。


(ア)の堀。
この下に5段程の郭がつづく。
(ア)の堀下の段郭


見晴らし台(仮)とそこからの眺め。


尾根先付近西側斜面の段郭状削平地。畑地化された跡かもしれないが、大手と推測される付近でもあり何かあってもおかしくない。


尾根先付近西側斜面。これらは竪堀ではないだろうか。


尾根先の大手周辺。
今は道路があるが、当時はもう一段下の沢まで延びていたものだろう。

黄金沢は水量こそ少ないが両岸とも深い谷である。

花古屋城

古薬師の地名のある西麓から見た花古屋城。


2018、5月再訪

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