「長野県町村誌」の「大石氏城跡」に「大石組人家の西路傍の田間にあり。東西二十間、南北三十間、四方石塁存し堀の形跡あり。少し高地にして城畑と称し北に外城の名あり。里老伝曰、大石太郎なる者住して祢津氏の為に滅ぶと、其伝詳ならず。長禄中(1457~59)祢津宮内少輔代官岡村四郎兵衛居住す。文正の頃(1466)岡村四郎左衛門時則あり。」とあり、「小県郡誌」ではさらに「…これら防備を施したる邸宅を城と呼びなしたる遺構にして居館の址にて城塞にはあらざるべし。」という。
これを「信濃の山城と館」では、開発領主である大石太郎は祢津氏によって滅ぼされ、以後祢津氏の支配地に組み込まれたものとする。
大石氏が住した時期だが、開発領主であるとすると鎌倉期は勿論平安期もあり得る。
しかし大石一帯は古く鞍掛といわれるところで、古代の新張牧に含まれると思われ、そもそもが牧経営にあたった大伴氏の流れをくむとされる祢津氏族の支配地であったと考えられる。領主権をもった在地領主として入ったとしても摩擦は避けられなかっろう。
祢津氏の初見は保元の乱(1156)だが、そのころから鎌倉期の間には既に一帯は祢津氏の支配地であったと思われるのだが、その間に大石氏も入殖しやがて祢津氏に追われたものか。
或は鎌倉幕府影響下で多少の所領の交錯の中で共存していたものが、長禄中(1457~59)祢津宮内少輔代官岡村四郎兵衛居住までの間、室町初期の混乱の中で大石氏は祢津氏に追われたのかもしれない。
かつて祢津大石郷にいた大石氏との関連はわからないが、信濃大石氏は信濃藤原氏の後裔で、信濃国佐久郡大石郷(南佐久郡佐久穂町八郡大石)を本貫地とし大石氏を名乗ったといわれ、勢力のあった室町期には関東管領上杉氏のもと、四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)の一人に数えられ、代々武蔵国の守護代を務めたという。
このあたりはいずれもう少し調べたい。
『御符札之古書』から代官の支配地をみると、祢津田中(代官浦野氏)・小田中祢津(代官金屋氏・出沢氏(出浦氏か)・岡村氏)・大石(代官岡村氏)・桜井(代官桜井氏)・芝生田(代官芝生田氏)の五郷となる。
大石郷は、牧家・本大石・有津倉・金子・原を含めて現地名として大石が残り、これと重なった地域であろう。代官は岡村氏で小田中祢津の岡村氏と同一と思われる。(東部町誌より)
岡村氏は浦里の岡を本領とする氏族とみられている。
祢津氏代官岡村氏についてはいずれそちらで書きたい。
ほぼ中央の天神社が建つ積み石。古いものとは思えないが、元々は土塁なり何かしらの遺構が在った可能性はあろう。
天神社の北側周辺。
左にある建物の辺りには井戸が残るという。
右手の田は大石城の西辺になるが、少し低くなり堀跡の可能性があるという。
民家の為詳細な確認はできなかった。
西側道路から見た大石城全景。
水田より少し高く、古いものかはわからないが石積や土塁状のものもみえる。
東に一区画離れた所を西沢川が流れている。
本来は東の堀の役目を果たしていたろうことは容易に想像できる。
西沢川対岸、本大石にある石塔郡。
手前は新しいものの様だが、奥の五輪塔などは古いものに思えるが関係性は不明。
大石城北側の民家が立派だったのでパシャリ。
ここを西に行った道に「慈眼視衆生観音堂」がある。その観音堂は大石区全体でまつっているという。
2018、6月初訪
2018、6月加筆
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