周辺の農地改善によっても唯一残された遺構で、「上田小県誌」に「…石塁前には祠が数基あって、村人は神聖な場所としている。」とあり、まさにそういった印象である。
余談だが、そういった印象を受ける場所は度々見かける。
謂れが残っていれば、あれこれ空想も巡らせられるが、伝承もない聖地などをまえに浅識な筆者など唯うーむと唸るばかり、せめて古人の思いが永く遺ることを願うばかりである。
さて「信濃の山城と館」によると、「長野県町村誌」に「別府曰跡」として「北の方別府組にあり。祢津の別府ならん。祢津氏の族、別府氏の居住の地たり。小笠原系図に、小笠原氏、芝生田、別府の両城を抜くとあり。」とあるという。
永享八年(1436)の三月ころ、信濃守護小笠原政康による「芦田下野守征伐」で芦田氏を支援したと思われる祢津氏と海野氏が小笠原政康の攻撃を受けており、別府城は芝生田城と共に攻撃されている。
この戦いで芦田氏は大井氏に降り、大塔合戦(1400)以来反守護であった祢津氏と海野氏は、この戦い以降は守護の指揮権に従うことになったのである。
将軍義教から小笠原政康への感状は、永享八年(1436)三月六日に「知隈河(千曲)を越え、祢津に差し寄せ、芝生田・別府両城を追ひ落とす。…(以下略)」。五月十八日に「今度祢津海野に対し合戦の時忠節を致し、親類・被官人等疵を被るの由、注進到来す。…(以下略)」。八月三日「芦田下野守のこと降参せしむの由…(以下略)」。
別府城は根津氏直轄地で根津氏本拠の目前であり、小笠原方の被害からも戦いの激しさが伺える。
詳しくは芝生田氏居館も参照。「大塔物語」に大塔合戦(1400)で祢津氏に従属した者の中に別府がみえる。
生島足島神社起請文(1567)の祢津氏被官衆の中に別府六右衛門直満がみえる。
別府氏は「長野県町村誌」に祢津氏の族とあるので、別府に居し別府氏を名のった祢津氏族ということになるのか、少なくとも縁戚関係にある氏族であろう。
芝生田氏居館の記事と重複するが以下を参照。
祢津氏の所領は、西は三分川上流部から田中郷へかけて、南は千曲川、東は深沢の渓谷辺までを治めていた。そして北は地蔵峠を越えて群馬県吾妻郡嬬恋村までの広範囲なものであったようである。
根津氏直轄地は祢津西町に館をおき、加沢・別府・新張・奈良原さらに新張牧の牧場地域を含み、新張牧は湯の丸を越え群馬県側の田代方面まで広がっていたらしい。
『御符札之古書』から代官の支配地をみると、祢津田中(代官浦野氏)・小田中祢津(代官金屋氏・出沢氏(出浦氏か)・岡村氏)・大石(代官岡村氏)・桜井(代官桜井氏)・芝生田(代官芝生田氏)の五郷となる。
祢津氏に関する所領としては浦野(浦野氏)、岡(岡村氏)、塩原(塩原氏)、田沢(田沢氏)、奈良本(奈良本氏)、春日(春日氏)で、浦野氏・塩原氏・春日氏は平安期から鎌倉期初頭に祢津氏から別れて開発領主となったものらしい。
下段の石塁。畑との境界になる。右手奥には湧水があるらしいが道も無いようなので確認出来なかった。
下段の石塁の上は竹藪で薄暗い。
上段の石塁。「上田小県誌」の「…石塁前には祠が数基あって…」とはこの石塁をいうと思うのだが、やはり竹藪で確認はできなかった。
2018、6月初訪
0 件のコメント:
コメントを投稿