祭神: 応神天皇、神巧皇后、仲哀天皇、玉依姫命
勧請の年月日は不詳であるが、真田安房守昌幸が天正12年(西暦1584年)上田城築城にあたり鎮護のために、東御市の八幡神社(現:滋野神社)を現在の地へ移したと伝えられている。真田氏のあと、上田藩主となった仙石氏・松平氏の崇敬篤く、藩主自らの参拝、社殿の修築再建などは藩の費用で行われた。松平氏のころ、弓矢の神と崇めて、毎年正月三日の射初式のとき金小的に当てた者は、十四日の宵祭りと翌十五日未明のその的と矢を奉納することを例として幕末まで続けられていた。なお、旱魃(かんばつ)の年には、大星神社、大宮神社と当八幡神社の三社合同で雨乞い祈願を行った。最近発見された白鷹・黒鷹の大絵馬は上田藩主仙石政明の献上になる上田市の文化財で東信地方で最大である。その他絵馬三つ、狛犬、棟札なども文化財である。
元々は現在の東御市の和字海善寺にあった。
創立は未詳だが、滋野氏代々の産土神で八幡大神を祭って「八幡宮」といい、天延年間(974~976)に海野幸恒が再建と伝承されている。
天正十二年(1584)真田昌幸が上田城築城の際に移されたが、元の海善寺でも「八幡宮」といっていたようで明治十三年に八幡宮から「滋野神社」と改称している。
海野氏の氏神であるという「八幡宮」を上田城下に移したのは、真田氏が海野一族の嫡流を主張することから一応納得がいくか。
また、天正十一年に(1583)真田昌幸が上田城下に移した鬼門鎮護の寺「海善寺(開善寺)」(現在の「海禅寺」)は、東御市「滋野神社」東側に隣接する「廃海善寺跡」が移されたものである。
「廃海善寺」は海野氏の祈願寺であったというので、やはり海野氏にゆかりがある。
参道と鳥居。
手水舎。
拝殿。
説明板。
本殿。
境内。
「兜石八幡宮」とある。
不明。
不明。
不明。
参道南の国道18号交差点の石碑。
参道南の矢出沢川の橋。
上田城は矢出沢川を天然の外堀であった。八幡宮の置かれた位置の厳密な理由はわからないが、鬼門の方角である為とされている。
2020、3月初訪
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