2020年1月30日木曜日

駒形城(駒形神社)@佐久市塚原上塚原

塚原の台地縁部、「駒形神社」が祀られる所が「駒形城」である。
沢の谷に挟まれたような要害の地形で、土塁と堀跡が遺構として残されている。
城に関する史料は無いが「耳取城」の大井氏または「道本城」の根井氏との関連が指摘されている。

塩名田から塚原の台地上を通る中山道筋にあたり、古くから開けた所であったらしい。
 鎌倉時代には「道本城」の根井氏の私牧が営まれたと考えられ、駒形神社との関係が示唆される。
根井氏は望月牧を運営する望月氏の一族で、千曲川対岸の矢嶋ヶ原でもやはり望月氏一族である矢嶋(八嶋)氏が牧を運営するなど望月氏の勢力があったようで、1k程南の鳴瀬に「落合城」があるが、道本城主根井行親の五男である落合氏が支配した所とされていることからも、やはり根井氏との関連が考えられる。

根井光親は木曾義仲の入洛に従い義仲四天王といわれている。
宇治川・粟津の戦い(1184)で源頼朝方に敗れると多くの信濃武士は鎌倉幕府の御家人となったようで、本家望月氏も所領を残しているが根井氏は滅亡したものか。

承久の乱(1221)の功で大井庄を賜ったとされる小笠原長清の子朝光が大井氏を称し、その子大井光長には7人の男子がいて四郎行氏が耳取に入ったものらしく、その耳取大井氏が最初に構えた館が「五領大井館」と考えられ、寛元年間(1243-1245)の構築という。

文明十八年(1486)耳取城城主の大井政継が駒形神社を再興したと伝わることや、下塚原に耳取城の監視所的な役割をしたと思われる「下塚原屋敷」があったらしいことから、耳取大井氏の勢力圏であった時期があったことは間違いないと思われる。


駒形神社社殿の裏手と境内東側に土塁跡が確認できる。
北側の処理場のあるところの低地は元は深かったと思われ、南側の切れ込んだ谷を利用した堀切があってもよいと思われる(A)の地形が東側にある。

南側の駒形神社入口。奥に橋がある。
説明文
駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないがこの地方は、いわゆる信濃牧の地であり、祭神には騎乗の男女二神像を安置しているので牧に関連した神社と推定されている。
昭和二十四年五月三十日国宝保存法により国宝の指定を受けたが、文化財保護法の施行により現在は重要文化財に指定されている。
再建は文明十八年(1486)と伝えられているが形式手法からみてもその頃の建物と考えられている。
(以下略)

石段脇。
石段。
鳥居。
子宝の神様だとか。なるほど。
鳥居横高まりも土塁跡と思われ、境内東側の土塁に続いている。

祭神は騎乗の男女二神像で本殿は室町時代のもので国の重要文化財に指定されている。
宇気母智命(うけもちのみこと)を祀り、文明十八年(1486)佐久郡の耳取城城主・大井政継が再興したと伝わる。
「駒形神社」は各地にあり牧場に関係があるとされているが、「高麗神社」であり高麗の帰化人たちが祀った神という説もある。どちらにせよ、馬牧や製鉄などは渡来系文化で帰化人たちはそのプロフェッショナルであるのでそう矛盾しない。

社殿裏の石祠。土塁跡も確認できる。

土塁跡は境内東側にしっかり確認できる。
土塁の裏は堀跡遺構。
離れたところの石祠。

南側の切れ込んだ谷。
北側の処理場のあるところ
東側にある(A)の地形。





2019、9月初訪

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