寛元年間❨1243~1245❩頃、大井又太郎光長の四男、又三郎行氏が耳取に居館して周辺地域を領知したとされており、その耳取大井氏の最初の居館の場所が五領❨五霊❩と考えられている。
その後の戦乱期に入って防御上の理由から耳取城を築いて移ったと考えられている。
大井氏又太郎光長のとき、所領をそれぞれ子供たちに分与して領知させた。
嫡男が小諸市の大室、次男が長瀞❨長土呂❩、三男三郎行光が宗家の岩村田、四男の行氏が耳取、五男が森山、六男が平原に入って大井庄を治めたという。
このなかで、江戸時代まで家名を存続したのは耳取大井氏のみという。
ただし、後の耳取城主大井政継は平賀玄信(大井成頼)の孫(『大井小笠原流系図』)で耳取城を攻めとって耳取城(鷹取城)主となるという(Wikipedia)。つまり玄信平賀氏を継いだ岩村田大井氏の一族で、父大井康光は岩村田大井宗家の跡を継いだ長窪大井氏の出であるなど四郎行氏の系ではなくなっているようである。
どちらにせよ世系の維持は大変なことらしい。
ここは、そんな鎌倉時代の貴重な居館跡とされている。
千曲川の右岸段丘の中段になり、現在は畑地だが低い石積に囲まれた一画が館跡らしい。
「信濃の山城と館」には周辺には湧水もあり、北側には一段高い所があって、その辺りを中心に館が営まれ、この段丘上に緒士の屋敷や村落になっていたものとおもわれるとある。
現在、すぐ北側には道路が通り館東側の台地をも大きく削っており、従来とは大分様子が変わっているようである。
その東側台地続きの南には五領城があり、五領館の詰めの砦と考えられている。
方形の微高地が推定地。
北方300mのところには旧耳取神社跡と700mほどのところには伝万福寺跡❨玄江院のもと❩、南には五領城がある。
現在は裏の段丘上に農地が広がるが、従来はこの段丘に農地が開拓されていたようである。初期の耳取大井氏はこの五領館から周辺を統治したのであろう。
中山道の通る塩名田には、従来にも千曲川の渡しがあったであろうことは対岸に御馬寄城があることからも、交通の要衝であったことが推測される。
南1kmのところには駒形城(駒形神社)があり耳取城主大井政継再興と伝わるが、五領大井館時代に領知していたかどうかはわからない。
2019、11月初訪
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