寛元年間❨1243~1245❩頃、大井又太郎光長の四男、又三郎行氏が耳取に居館して周辺地域を領知したとされており、その耳取大井氏の最初の居館の場所が五領❨五霊❩大井館と考えられ、五領城はその詰めの砦と考えられている。
大井氏又太郎光長のとき、所領をそれぞれ子供たちに分与して領知させた。
嫡男が小諸市の大室、次男が長瀞❨長土呂❩、三男三郎行光が宗家の岩村田、四男が耳取、五男が森山、六男が平原に入って大井庄を治めたという。
その後の戦乱期に入って防御上の理由から耳取城を築いて移ったと考えられている。
初期の耳取大井氏はこの五領館から周辺を統治した。中山道の通る塩名田には、従来にも千曲川の渡しがあったであろうことは対岸に御馬寄城があることからも、交通の要衝であったことが推測される。
南1kmのところには駒形城(駒形神社)があり耳取城主大井政継再興と伝わるが、五領大井館時代に領知していたかどうかはわからない。しかし砦程度の備えは欲しいだろうし、北にも宮ノ前辺りに見張り場があってもいい。
中山道の通る塩名田の北方台地の突端を堀切って築かれている。
南側は崖で侵入は難しい。北側は沢の谷地形となっているが比高が低いので要害性は低そうである。東側は二本の堀切で台地と区切っているが、台地側は整地され元々の地形がわからなくなっている。
台地続き北のすぐ下には大井館があったとされているので、台地上には他にも何かしらの施設があったかもしれない。
北側の沢。
沢から見上げた五領城。
沢の上部から、(ウ)の堀切が見える。
(ウ)の堀切。
(ウ)の堀切と(2)の郭の高台にある石祠。
(2)の郭。
(イ)の堀切と奥は(1)の郭。
ここから先は笹藪で入っていない。「信濃の山城と館」には(1)の郭の先には(ア)の堀切と(3)の郭が記されている。
(3)の郭へは西先端の墓地から行けるかとも思ったが、ちょっとした急斜面であった。
西先端の墓地にある石祠。
台地上から五領城を見る。
沢の北側の台地上は大井館の後背になる。
現在は道路が貫通している。
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