2020年1月27日月曜日

成就寺@小諸市六供

真言宗。本尊は阿弥陀如来。
平安初期の天長五年(828)弘法大師空海が滝原に遍照寺を開基したのがはじめという。
後に落雷により遍照寺は焼失、焼失を免れた本尊は末寺円命寺に移された。
さらに室町時代の長享元年(1487)大井伊賀守光忠が鍋蓋城を築き、明応年間(1492~1501)の頃に鬼門除けとして観音堂及び当山を建て、永正元年(1504)に祈願寺として本尊を円命寺より移して寺号を「城に就く寺」即ち「城就寺」と改めたという。
江戸時代の元禄4年に「成就寺」に改称した。

「信濃の山城と館」に、鍋蓋城が大井伊賀守光忠によって築かれたのは長享元年(1487)で、光忠の子光為(光安)が鍋蓋城の支城として乙女城(白鶴城)をのちの二の丸に築き、周辺に手代塚城、与良城、七五三掛城、富士見城を配置して小諸防衛網が造られていく時期に、この成就寺が創建されている。(以下略)お寺を防衛網の一環として配置したことの例として取り上げている。


 成就寺の沿革
成就寺の正式の名は「天国山吉祥院成就寺」という。
昔、弘法大師 が東国に御巡錫の折り、市内滝原の西側景勝の地に一草庵を結ばれ、「塔の峰」と名付けられた。
それを起縁として、天長五年(八二八年)遍照寺を建立(成就寺発祥の地)一世道慶より十四世瑞良まで、
この地に諸堂を建て仏法興隆に勤めたが、十五世良雲の時落雷のため諸堂を焼失、末寺円命寺 に移る。 
二十四世快天の時、大井伊賀守光忠の要請により、
小諸城の鬼門除の寺として六供に移住、寺号も
「城に就く寺」と改名した。 
また、門前に地蔵院、華蔵院、明王院、円光院、円蔵院、太子堂の六坊を建立、故に六供六坊の呼称が起り地名となった。 
その後城主も替わり、三十五世尊真の元禄四年
(一六九一年)に寺名の「城」を「成」に改め、成就寺となり現在に至っている。 
境内には、本堂、不動堂、位牌堂、鐘楼、書院、庫裡、円蔵院跡(隠居屋)等の堂字がある。 
現在、真言宗智山派総本山智積院の直末として、
長野北部教区に属し、五十世住職が法灯が護持している。 
 成就寺由来記より


由来記の末寺円命寺がどこかわからないが、滝原の塔の峯の遍照寺があったと伝わる伝承地には、室町時代と推定される五輪塔が140基あまり残されている(塔の峯五輪塔群)ことから、室町時代を中心とする時期に寺が存在したものと考えられている。

これは、大井伊賀守光忠の時代ぎりぎりまで滝原に遍照寺があったとも推測できないか。
そして遍照寺は、鎌倉時代の小室太郎光兼か、そのあとに大室に入ったという大井彦太郎時光(大室大井氏)に関わる寺だったかもしれない。
あるいは、小室太郎光兼が宇当坂に館(宇頭坂城)を築いたと伝わり、近くに寺院があってもよいが、寺院は居館より高い場所にあるのが普通とされているのでどうか。

山門。

参道。

学童集団疎開の碑と小諸の想い出歌碑。

石橋と石垣の上の鐘楼。

本堂。

本堂裏は墓地となっているが、松井川と中沢川に挟まれた小山で見晴らしはいい。「信濃の山城と館」でも櫓台としては最適とあるが、そもそも谷地形であることは指摘されている。
国道18号のすぐ北、大井氏が住んだとされる「宇当坂の館」と推定される段丘があり、それとの関わりは気になる。鎌倉時代に遡るが小室太郎光兼も宇当坂に居を構えたと云うので、古道が通るなど歴史的に重要なところであったのかもしれない。

北面から山門まで築かれた石垣は城郭然としているが、江戸時代に中沢川の水害を防ぐ為に築かれたものという。




2019、12月再訪

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