2020年1月27日月曜日

宇当坂の館@小諸市乙

平安時代末期から鎌倉時代初期に、小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が宇当坂近くに館を構えたと伝わるがよくわかっていない。
小諸市㏋などには、小室太郎光兼が現在の小諸城の東側に築いた館で、小諸城の起源が「宇頭坂城」とあるが、当地を小諸城の直接的な起源とするには少々無理があるように思える。
やがて小室氏は南北朝時代に衰退。
文明十六年(1484)二月、村上政清・顕国父子(顕国は政国の子とも)により佐久郡岩村田の大井氏宗家が壊滅。大井光照は小諸に移ったといわれ、その居館が「古宿」のあたりで「宇当坂の館」と推定されている。
光照には5人の子があり、長男弾正貞晴は岩尾に、二男宮内少輔貞家は根々井に、三男兵部少輔信直は耳取に、四男伊賀守光忠は小諸に、五男大和守信広は武石に各々居住していた。 (「信濃勤王史攷」)
おそらく光忠は宇当坂の館にあって、長享元年(1487)鍋蓋城を築き移り住んだ。「小諸町誌」には大永五年(1525)病没とある。

また鎌倉時代、大井光長の子、彦太郎時光が大室に入ったが大井の家督を争って閉居させられるが、その居館は大室神社南の諸地域なども考えられる。この大室大井氏との関係が不明だが、室町期に伊賀守光忠が小諸に居住したことを考えると、大井氏は古くからこの地域と関係があったかもしれない。


中沢川西の段丘上台地の突端部には、かつて榎の老木があり、根元の石祠を「道見大明神」と呼ぶが、小諸に居住した光照の四男伊賀守光忠の法名「吉祥院殿源開道見大禅定門」の「道見」であることや、すぐ段丘下にある五輪塔と宝篋印塔(国道18号の南にあったとも)が大井一門の墓碑と伝わることなどから、このあたりに大井氏居館があったものと推定されている。

かつての榎の老木ではなかろうが、立ち木と近くに石祠もあった。
刻銘などは確認しなかった。

段丘上台地の突端部。

大井一門の墓碑と伝わる五輪塔と宝篋印塔。
「信濃の山城と館」に国道18号の南にあったという説があるとある。すると、もはや成就寺であり関わりが気になる。
古宿の北には御所平の地名があり御所平館も推定されており、小室太郎光兼の館も大井光照の館もこれといった決め手はなさそうである。




2019、12月初訪

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