鍋蓋城は、長享元年(1487)大井伊賀守光忠によって築かれたと言われている。
後に光忠の子の光安(光為)が鍋蓋城の支城として乙女城(白鶴城)を築き、周辺に手代塚城、与良城、七五三掛城、富士見城を配置して小諸防衛網が造られていったと考えられている。
天文二十三年(1554)武田晴信が佐久地方に乱入し鍋蓋城は落城。
そして武田氏によって小諸城が築かれたとき、乙女城は二の丸に、鍋蓋城は鍋蓋曲輪として取り込まれていった。
この二城が小諸城の原形となったといわれる所以である。
当時の大井氏一族が置かれた状況は諸説いわれるが、文明十六年(1484)二月、村上政清・顕国父子(顕国は政国の子とも)により佐久郡岩村田の大井氏宗家が壊滅。大井光照は小諸に移ったといわれ、その居館が「古宿」の「宇当坂の館」と推定されている。
光照には5人の子があり、長男弾正貞晴は岩尾に、二男宮内少輔貞家は根々井に、三男兵部少輔信直は耳取に、四男伊賀守光忠は小諸に、五男大和守信広は武石に各々居住していた。 (「信濃勤王史攷」)
おそらく光忠は宇当坂の館にあって、長享元年(1487)鍋蓋城を築き移り住んだ。「小諸町誌」には大永五年(1525)病没とある。
子の光安(光為)が鍋蓋城の支城として乙女城等を築いていったとされるので、小諸防衛網が造られていったのはそれ以降といえる。
天文二十二年(1553)埴科郡葛尾城主村上義清が越後に落ちる。
天文二十三年(1554)武田晴信が佐久地方に乱入(「勝山記」等)。このとき、鍋蓋城は乙女城等の支城とともに自落したとしたと思われる。
中沢川に沿った細長い台地の突端付近に築城され、鍋の蓋のような丸の形から、いつしか鍋蓋城と呼ばれるようになったらしい。
より要害な千曲川に臨む突端部ではないのは、築城時すでに、おそらく守護により街道の変更と宿駅として手代塚などから村寄せのされていたことが「小諸町誌」にあり、旧街道のあった宇当坂より重要性が高い地域となっていたのであろう、その東山道等交通の要衝をおさえる意図が感じられる。
それは鍋蓋城が実際、居館程度の規模でしかないことからも伺えると思う。
とはいえ、北は中沢川の深い谷で、南側も大手門公園に見られるように窪地で、なにげに要害性は高い。
「大井伊賀守居城鍋蓋城址」と表札のあるところで、説明板も貼ってある。
トップ画と同じ場所だが、宅邸前の道路は鍋蓋城を貫いて造られたもので、昔は本町と市町の往来は城の北側を廻っていたという。
悔しいのは、鍋の蓋のような丸の形が見えてこないことである。南の大手門公園の低地が古いものとして、東の本町方面に半円を描けばしっくりくるか。
ほか、北の養蓮寺の場所との関係や、東西にあったろう堀切が気になるところ。
浄斎坂と大手門公園。
南側は現小諸城大手門のある大手門公園で堀であったかもしれない。この付近からは鍋蓋城が高台にあることに気付かされる。
大手門公園から西側、その付近。
高台にあるとともに、鍋の蓋のような丸の形から鍋蓋城とと呼ばれるようになったと言う話しもなるほど肯ける。
鍋蓋城の東側は台地つながりで城域が判然としないが、大手門公園から浄斎坂とその延長の権兵衛坂で堀切られていたのかもしれない。
堀はそのまま中沢川の谷に落とすのが自然だが、街道のあったことを考慮すると周回していたのかもしれない。
鍋蓋城の西側は、台地つながりの緩い傾斜がだらだらと続いている。
旧北国街道小諸宿の小諸本陣や脇本陣がある。
鍋蓋城の北側は、中町で本来は旧街道が迂回していた。
城からの傾斜は確認できるが、旧来の城の姿は想像しにくい。
養蓮寺と中沢川の深い谷。
養蓮寺は1493年に開基された浄土真宗の寺という。大井伊賀守光忠が鍋蓋城を築いた(1487年)後で、中町の通りが養蓮寺のところで折れるのが元々の姿かわからないが、鍋蓋城の防御に養蓮寺を与した城下町づくりがされたと考えられる。
また、鍋蓋城と近接する関係から一向衆に関した何か意図があってのものとも思われる。
因みに東の方中沢川沿いの成就寺も、鍋蓋城の東の備えとして建立されたとされる。
2019、12月再訪
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