2020年1月16日木曜日

神長官裏古墳@茅野市宮川

神長官守矢資料館の敷地奥にミシャグジ社(御社宮司神社)があるが、その左隣奥の段丘面に神長官裏古墳がある。
7世紀中頃の古墳で円墳という。
守矢家では、「用明天皇(585~587)の御代の祖先武麿君の墳墓」と伝えられ、蘇我に敗れて諏訪に逃れ、守矢氏に養子入りした物部守屋の次男、武麿の墓とされている。

「丁未の乱」(587)は一般に仏教を巡って蘇我馬子と物部守屋が対立したとされるが、実情は皇位継承を絡めた政治的対立であろう。臣と連というのも因縁がある。
伝には建御名方神の諏訪入りなどの説との習合も考えられるが、物部氏、守矢氏、ミシャグジ信仰、果ては大神氏、三輪山大物主神と諏訪大社関連に想像は尽きない。

市指定史跡
神長官裏古墳
昭和五十二年十二月一日指定
  神長官裏古墳は、高部古墳群の中で疱瘡神塚古墳・塚屋古墳とともに墳丘・石室の保存されている古墳である。このほか、神袋塚古墳・甑塚古墳が本古墳の南側に点在したが、消滅した。
  墳丘は、高さが北裾から約2m、東西の径9.5m、南北の径9mであるが、当初はもっと大きな規模の円墳であったと推定される。玄室は長方形で、奥にしたがって若干狭くなり、長さ3.75m、入口幅1.75m、高さは2.3mである。石材は安山岩の他数種の石を混用し、側壁は大小の河原石を窮窿状に積み、天井石は板状節理の磐石を用いている。
  大正十三年に調査が行なわれ、木炭・木棺破片・弥生式土器片・碁石・獣骨片・直刀折片・刀子茎残片が検出されたといわれる。弥生式土器片・碁石・獣骨片は後に混入したものであろう。奥壁の左側磐石が抜き取られて欠損開口し、入口は東南に向くが天井石が崩れてふさがれ、羨道部は破壊されている。築造年代は七世紀頃と推定される。
  令和元年十二月
  茅野市教育委員会

石室


2020、1月初訪

0 件のコメント:

コメントを投稿

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...