神長官守矢資料館の敷地奥にミシャグジ社(御社宮司神社)があるが、その左隣奥の段丘面に神長官裏古墳がある。
7世紀中頃の古墳で円墳という。
守矢家では、「用明天皇(585~587)の御代の祖先武麿君の墳墓」と伝えられ、蘇我に敗れて諏訪に逃れ、守矢氏に養子入りした物部守屋の次男、武麿の墓とされている。
「丁未の乱」(587)は一般に仏教を巡って蘇我馬子と物部守屋が対立したとされるが、実情は皇位継承を絡めた政治的対立であろう。臣と連というのも因縁がある。
伝には建御名方神の諏訪入りなどの説との習合も考えられるが、物部氏、守矢氏、ミシャグジ信仰、果ては大神氏、三輪山大物主神と諏訪大社関連に想像は尽きない。
市指定史跡
神長官裏古墳
昭和五十二年十二月一日指定
神長官裏古墳は、高部古墳群の中で疱瘡神塚古墳・塚屋古墳とともに墳丘・石室の保存されている古墳である。このほか、神袋塚古墳・甑塚古墳が本古墳の南側に点在したが、消滅した。
墳丘は、高さが北裾から約2m、東西の径9.5m、南北の径9mであるが、当初はもっと大きな規模の円墳であったと推定される。玄室は長方形で、奥にしたがって若干狭くなり、長さ3.75m、入口幅1.75m、高さは2.3mである。石材は安山岩の他数種の石を混用し、側壁は大小の河原石を窮窿状に積み、天井石は板状節理の磐石を用いている。
大正十三年に調査が行なわれ、木炭・木棺破片・弥生式土器片・碁石・獣骨片・直刀折片・刀子茎残片が検出されたといわれる。弥生式土器片・碁石・獣骨片は後に混入したものであろう。奥壁の左側磐石が抜き取られて欠損開口し、入口は東南に向くが天井石が崩れてふさがれ、羨道部は破壊されている。築造年代は七世紀頃と推定される。
令和元年十二月
茅野市教育委員会
2020、1月初訪
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