2019年4月19日金曜日

矢花の七つ塚 @上田市上野矢花

新屋集落の北の方に11の古墳時代後期に属する円墳があり、第1号から4号墳を「新屋古墳群」、第5号から11号墳を「矢花の七つ塚古墳群」というらしい。
もとは大字上野字鴻呂館及び矢花地籍にかけて20数基があったという資料もある。

周囲広範囲には弥生後期の矢花遺跡が知られており、矢花七つ塚はこの遺跡の中央にあるのだという。
七つ塚の7基のうち3基は完全に破壊されてしまい、第6・8・9・ 11号墳がかろうじて確認できるという。6号墳は矢花の七つ塚の中心的古墳である。

「矢花の七つ塚」の北にある鴻呂館地籍の「新屋古墳群」の4基は、3基が残るが第1号墳以外はわずかに石室が確認できる程度になってしまっているという。

「矢花の七つ塚」は果樹園の中にある。西の道路脇の道祖神のところか、北の道路から入ることになる。

この地域にはもと11基の古墳があり。古墳群であったことが知られ、そのうち4基は早く全滅し、7基が残っていたので「矢花の七つ塚」と呼ばれている。 いまは第8号墳を中央にして第6号墳、第11号墳、第9号墳の4基を見ることができ、第7号墳と第10号墳はその位置が推定できるが、他はまったくわからない。 現存する古墳も墳丘の大部分が、破壊と流出により原形を知ることができないが、第6号、第8号墳に残存する巨石から定形時には規模の大きなものであったことが推察できる。古墳時代の後期(6,7世紀頃)に巨石を用いた横穴式石室をもつ円墳がこの地域に群生したことは壮観であった。神科台地に残存する条理的遺構や国府跡と推定される区域などとの関連も考えられ、当地域開発史の考察上貴重な遺跡である。

案内板が建っているところが「上田市文化財マップ」の第8号墳の写真と同じと思われ、上には石祠もある。
6号墳の西隣にあるもので、石室の一部がわずかに残っており、南北約5.2m、東西約7.1mの規模をもつものとのこと。

第8号墳のすぐ西隣の高まり。よく見ると石がゴロゴロしており古墳であろうか。
古墳であるなら、残存する4基の古墳では最も破壊が激しいという9号墳であるかもしれない。

すぐ近くにはもう一つ、それらしい形跡がある。
11号墳は天井石、奥壁、側壁の一部がわずかに残るとあるが、ここでは奥壁か側壁と思われる平石が立っているのを確認できる。これが11号墳かもしれない。

案内板の所から東のほうに見えるのが、おそらく第6号墳。
道を迂回して行くことが出来る。

ついでだが東の土手斜面を覗くと巨石がゴロゴロしている。石垣は畑の土留のものであろうが、巨石は古墳を撤去したものであるのかもしれない。

六号墳は天井石・奥壁・側壁の一部を残しているだけで、天井石が崩れているため石室の規模などは不明ですが、羨道〔せんどう〕部と玄室〔げんしつ〕をもつ横穴式の古墳です。石室の側壁に平らで大きな一枚石を用いたり、天井石も大きな河原石を使っています。使われている石材の大きさから、六号墳は矢花の七つ塚の中心的な古墳とみられます。(「上田市文化財マップ」)



2019、4月初訪

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