戦乱・火災等で貞和二年❨1346❩二十一世専海住職までの資料がのこっておらず、開基年代等が定かではない。
寺伝によれば、平安時代後期第三代天台座主慈覚大師圓仁が東国巡化の折に開基したと伝えられている。
初めは洞善寺と称していたが、正徳五年❨1715❩以降から東漸寺と称している。
寺子屋を長期間行っていたが、元治元年❨1864❩手習い子どもの火鉢よりの失火により本堂・学校・庫裡を兼ねて、現在の庫裡が建てられた。明治六年❨1873❩より精業学校と呼ばれた。又、現在の本堂は、昭和四年❨1929❩敷地拡張を行い、昭和十七年❨1942❩落成した。❨東漸寺パンフレットより❩
駐車場より
案内板六地蔵
山門
参道
大銀杏
本堂
宇賀観音堂。
観音堂由来
天長年間第三世天台座主慈覚大師円仁が千曲川北岸の地観音平に馬頭観世音を本尊として開基したと伝えられる。
その後当山第二十八世円海代正徳二年に深沢の地へ移転佐久札所二番深沢観音として興隆「深沢につくりし罪もさんげせば朝日さすまに露と消えなん」と読まれた。
昭和五十四年伽藍の老朽化に依り当地に移転新築宇賀観音と改称する。
観音堂内
宇賀観音堂の馬頭観音は、天長年間(824~834)第三世天台座主慈覚大師円仁が千曲川北岸の観音平に馬頭観世音を本尊として開基したと伝えており、その後深沢の地に移転し深沢観音として興隆。昭和54年伽藍の老巧化により当地へ移転という。
千曲川北岸の観音平とは観音平古墳のある辺りか。
千曲川北岸には古道が通っており、押出には深沢川の渡しがあったらしい。そんな旅の安全を守る意味もあったかもしれないが、「上田小県誌」では奈良原の「古寺跡」や傍陽の天台宗実相院、芝生田の天台宗東漸寺の持ちである深沢観音は馬と関わりの深く、牧と密教寺院の結びつきも考えられるとあり、新張牧に関わる祢津氏との縁が深いものかもしれない。
駐車場前の道の下に弁才天があった。
東漸寺遠望 |
2019、11月初訪
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