「長野県町村誌」に、 〔古城址〕村の丑の方四町、字城にあり。東西四十間、南北二十間、東西に堀あり、今畑となりて纔わずかに形跡を存す。千曲川に臨みて平坦なり。城山、城ノ腰、城ノ上の字あり。何人の居たるや不詳。或は古昔牧監居館の址ならんか。とある。
平安期,官牧望月牧の牧馬を検査し朝廷への貢馬を寄せ集めた所が御馬寄との伝承があり、古くからこの地(現在は田中島とよばれている)を古城跡、さらには望月牧の牧監の居館跡ではないかとみられていたようである。
郷土史家の一説には、旧浅科村の一帯は昔は矢嶋ヶ原で望月氏一族である矢嶋(八嶋)氏が牧を運営し、望月牧として御牧原台地より生産性が高かったとある。
矢嶋氏が牧監かはわからないが、地名を考慮しても望月氏、とくに矢嶋氏に関わりがありそうである。
しかしながら、望月牧の牧監の居館としては腑に落ちない場所であり、やはり千曲川対岸の監視の役割が考えられ、そうすると、五領に大井氏が入った寛元年間❨1243~1245❩頃の築城も想定できそうである。
西側から。
千曲川に面した台地縁端にあり、東西に堀があったという。
西の堀があったであろうところ。
東の堀があったであろうところ。
東側から。
奥左の林が本来の突端。道路によって寸断されている。
現在の突端。
南方の塩名田は古くからも交通の要衝であったと思われる。
2019、11月初訪
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