2018年10月4日木曜日

浅井城@佐久市新子田

宮坂武男著「信濃の山城と館」にある城館だが、同書では「地元でも知っている人はいなかった」とあり、「長野県町村誌」にも記録は無く、地元の伝承等もないらしい。
つまり、ここが浅井城として特定出来ている訳ではないということである。
史料を漁るのも面倒そうなので、以下「信濃の山城と館」から一部そのまま引用する。

「平賀成瀬佐久郡平鈞絵図」(天正の古地図)に「浅井城、小林右近住」「永弐百貫文、安原小林右近介」等の記載があるようで、明治2年筆写の「信濃国佐久郡五拾六ケ城」と称する江戸末期の本に「永二百貫文、安原・瀬戸・浅井ノ城、平林左近」とあり、出所は同一のものであろうが、近世末まで、何らかの伝承があったものと考えられている。(「東村誌」)

さて、戦国末期の絵図に「浅井城、小林右近住」「永弐百貫文、安原小林右近介」等の記載があるということだが、「安原・瀬戸・浅井ノ城、平林左近」の瀬戸が瀬戸城山、或は中城峯等の瀬戸であるならば、安原は燕城の比定も無理ではないのではなかろうか。そういう意味では浅井城は新子田地域のどこかに比定でき、それが此処であるのかも知れない。

安原が燕城を言っていると仮定した場合だが、燕城は大井氏一族の安原氏が築いたといい、安原氏は文明16年(1484)に村上氏が岩村田の大井氏を攻めた後の記録には出てこないため、このころ滅亡したのではないかと言われている。
小林右近或は平林左近が在ったとすればその後であろう。村上氏か武田氏関連で入った者と考えられそうだ。
但し「信濃史料巻十一」天文九年(1540) 武田信虎、佐久郡に攻入り、諸城を陥る、(勝山記)に「…小山田殿(昌辰)の代わりとして、小林宮内助殿モ一城ヲカマエ申候…」とあり。この小林宮内助に関わるものとも考えられるか。

そもそも小林右近と平林左近は似通っており、所領も同地域で二百貫文であり同一人物の可能性がある。もっとも栄枯盛衰の激しい戦国期のことなので両氏が前後して知行したともいえるか。
長野県に小林姓は多いが、この地域にも小林姓は多いようで、平林姓はもう少し南の高柳周辺に多い。

鳥坂城に書いたが、この付近は上原伊賀守に関する伝承が多いようで、上原伊賀守は武田家譜代の小山田虎満の当初の名乗りといわれている。
内山城を中心に八反田城深堀城など周辺の城砦は、およそこれに関わるものではないかと思われ、小林右近、或は平林左近は上原伊賀守(小山田虎満)の同心であるのかもしれない。

因みに「信濃史料巻十一」天文九年(1540) 武田信虎、佐久郡に攻入り、諸城を陥る、(勝山記)に「…小山田殿(昌辰)の代わりとして、小林宮内助殿モ一城ヲカマエ申候…」とあり。

だだし、「信濃の山城と館」八反田城には、上原築前があり平賀氏の族とも諏訪氏の族ともある。この辺はいずれ調べてみたい。

この界隈、台地上に隣接する鳥坂城との関連や堀跡等、実に興味深いといえる。
周辺の氏族や歴史、小字地名等を当たればもう少し何かわかるかもしれない。
とりあえず「東村誌」を閲覧せねば。

浅井城と鳥坂城
浅井城と鳥坂城周辺絵図を描いてみた。
同じ台地上南端の東西に隣接しているが、鳥坂城は北条氏の佐久侵攻に関わる陣場ともいわれ、時代的に遅いものかも知れない。

詳細な遺構などはその手の専門家に任せるとして、素人印象として、古地図など見ていないので古い道がどれであるか分からないのだが、まず北東から南西へ斜に通じる印象を受ける。それは(ア)(イ)の堀状との絡みでそう感じるのだが、(ウ)や(A)さらに老人ホーム南の道である。
また(ア)と(イ)の堀状の窪地。西の窪地(エ)と北の墓地の窪地(オ)。(A)の折れと新子田八幡神社、老人ホーム(旧三井小学校)の空白地などが気にかかるところか。


「家の前」地籍から見た浅井城。
写真中央の林が(2)にあたる辺になるようだ。
「城の前」でなく「家の前」なのは謎。

「家の前」の東寄り。
青い屋根の後の小山は最高所になっているようだ。今回は藪が酷く登れるなかったが南側へ広く展望が効くだろうことが察せられる。

西方を向いた水田風景。

最東端は香坂川にぶつかる。
写真中央の森が断崖上の平地(3)の付近で、香坂川と崖が天然の要害となっている。
堤の内側には香坂川上流か霞川から引いた用水が流れ、水田を潤している。

香坂川と(3)の平地のある断崖。

東面。この断崖上が(3)の平地になる。

東面の北側は(3)を包むように大きくえぐれている。
霞川の合流地点までの北岸、そこから霞川に沿っては断崖状の急斜面である。

少し上流、霞川と香坂川の合流付近から西方を望む。

霞川と集落。

霞川の段丘と右上は根通寺。
台地上の要地ではあるが。

霞川と香坂川の合流付近から坂道を東へ向かう。
石塔の左の林は墓地だが台地から下の集落へ降る要地ではと思えた。

断崖上の交差点。
「信濃の山城と館」には無いが、現在は南に向かって香坂川を橋がバイパスしている。
写真を真っ直ぐ進むと丑久保地籍で浅井城の北面にあたる。
周辺に遺構が皆無だが、正面の邸宅の塀沿いにと古道らしき跡がある。


戻って「家の前」から北へ登る道。この先で丑久保からの道とぶつかる。
写真左の斜面上は鳥坂城で、同じ台地上で繋がっている。
この写真の道路は上の方では殆んど平地であるが、谷状の地形を利用した堀跡かと思える。西側斜面に狭い道があるが、それが古いもので、この道は時代の新しいものかもしれない。
中央右辺りに谷状に斜めの堀があるのだが写真を撮り忘れた。
おそらくV字の谷状の堀をなしていたのでは。
写真に無いが必然的に上のほうの道沿の墓地辺りも堀割に含まれていたろう。

また上に行った丑久保からの道との交差点右側に斜めに堀跡状の(イ)の畑があるのだが、作業の方がおられたので写真に収め忘れた。


道沿いの半田家の墓地の数段上が(1)になり祠が建つ。
台地の先端の岡といった地形なので畑地化され、段丘も城跡とは言えないかも知れないが雰囲気はある。
因みに上田市真田の傍陽上洗馬に半田氏がある。応永十年(1403)銘の半田弾正の塚とされる宝篋印塔の残る古い氏族であるが、浅井城との関連は未調査である。


南の小山への道。
「信濃の山城と館」では両側に井戸の印があるのだが分からなかった。

西側の井戸のある辺り。

南方を見る。
小山の斜面と右手が(2)の辺り。
写真でわかるように結構な広さの平地で、ここに居館を建て居住するには最適かと思う。

西方を見る。
奥の数段髙いのが(1)。

丑久保の方角からいってビニールハウスの辺り、(1)の東側(2)の北側辺りが中心的な所だったのかも知れない。

東方を見る。
(3)の平地で木の途切れている辺りの南斜面が竪堀状になっている。

小山の裾野は一段の腰郭状の平地がある。

東側。

西側。

西側の小山付近から(3)方向を見る。

西側の小山付近から(1)方向を見る。

西側の小山の西斜面の谷状の堀?

西側の小山頭頂部。

(2)の平地。というより窪地に見える。

東側にある高い方の小山。
右隅が登り道らしいがこの時期の侵入は無理のようだ。

東側にある高い方の小山。

東南の先端部。
小林家の墓地があった。

二重の竪堀であったかの様に見えるが?
ここから南側に降りられる。

降りたところに防空壕があった。
これも歴史遺産。

降った所から。


「信濃の山城と館」を閲覧していなければ気付くことはなかったであろう、堀跡と見られる(ア)の畑。
さらに10m程西にも同じような低地があり、奥は墓地になっている。

道路を横切って南からつづいているようだ。
(ィ)の堀と繋がるとしたら200mの長さにもなるだろうか。

堀はずっと北の墓地までつづいているようで、墓地で東西にL字になっているが、おそらく城域の北限と思われるので、元はT字に堀があったのではないだろうか。
或は小山周辺の遺構とは違う屋敷などがあったか。それはここからすぐ北の方角に新子田八幡神社があることで、鬼門の北東とは微妙にずれているのが気にかかる。
ただ、堀と並行に走っている南の参道が途中で北に折れている事から、新子田八幡神社が場所を移動した可能性もあるか。
或はもっと自然に考えるなら、やはり堀が折れの付近まで在った為に意図して参道を途中で折ったことが考えられる。
どうせなら老人ホーム(旧三井小学校)東側の道路まで堀割ってほしいところだが、堀跡が斜に走っていることから消防庫横に道辺りに向かっていたかも知れない。

写真は消防庫横の旧三井小学校への道。
すると墓地の堀の西側はどうなっていたかの話しになるのだが、台地西側は全く広大な平地で収集が効かなくなる。
しかし墓地の窪地は西側へ向いている。ここに屋敷地でも在ったものだろうか、謎。

新子田八幡神社
謎は面白い。だがそれを解き明かそうとするには非常に大きな労力を要する。
筆者のように知識の貧弱な者なら尚更である。
時間をかけて臨みたい。

南の田切からみた鳥坂城と奥の浅井城。



2018、10月初訪
2018、11月「信濃史料巻十一」天文九年(1540) 武田信虎、佐久郡に攻入り、諸城を陥るの件を追記。


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