2018年7月9日月曜日

新張の滋野神社@東御市新張

東御市には滋野神社が二つある。

一つは和は海善寺の滋野神社で滋野氏の氏神とされる。
紺屋町の八幡神社は天正12年(1584)に真田氏が上田城築城の際、海善寺の八幡社を移したものといい、海善寺の滋野神社はその跡地になる。

そしてもう一つがここ、新張の滋野神社である。
滋野神社の字地は滋野であるらしい。新張牧は信濃国十六御牧の一つに数えられる官牧であり滋野氏が管理したらしい。更にこの扇状地の奥は奈良原で一説に滋野氏の先祖とも云われる楢原氏の発祥地とされ、滋野氏発生の所縁の地なのである。

建御名方命(たけみなかたのみこと)事代主命(ことしろぬしのみこと)
明治13年に滋野神社と改称する。 勅使牧の役人、滋野氏、滋野良成が大同年間(806年)に創立したと言い伝えあり。
 境内神社として、八幡社、琴平社、秋葉社などがある。
 本殿、拝殿、鳥居などを備え、境内地約500坪。 境内社(二重氏子)として阿夫利神社がある。
 石鳥居(天明7年 1787年)水石(文化5年 1808年)石灯篭(文化9年 1812年) 狛犬(昭和10年)道路改修記念碑(明治44年) 江戸時代に地頭職の松平半左衛門忠勝により、神社欽として二石八升の石高を授与。 
井子の氏神、夏目田の氏神は、滋野神社を勧請(分社)したものと言われている。(長野県神社庁のサイトから一部転載)

写真には無いが、屋根瓦の神紋は諏訪系神社と同じ「梶の葉」である。祭神が建御名方命である事からも滋野神社と改称する前は諏訪系の神社であったろう。
ただし、明治期に行われた「神社改め」で、名前や由来のはっきりしない祭神は変更させ、神社の名前も地名を冠したものに変更されることが行われたようである。
滋野良成が大同年間(806年)に創立したと言い伝えはともかく、滋野氏に関してはあり得るので古い神があり、もっと古い社名があった可能性はある。

口伝の大同年間(806~810年)創建という伝承は全国の寺社によくあるもので、ほぼ当てにならないと思っている。
坂上田村麻呂の蝦夷征伐より平安遷都と朝廷の統治が進んだ時期である。「大同年間」とは歴史の転機を象徴しているものであろうと筆者は思っている。
滋野良成に関しては、あるいは祢津氏の祖として平安期には居たのかもしれないが、知識不足で今のところ何とも言えない。


井子の氏神、夏目田の氏神は調査してないが、夏目田氏の居館は県夏目田の現東御清翔高等学校のグランドが推定されている。
夏目田氏館近くには諏訪神社があるが、あるいはそれかもしれない。
井子は小諸市井子の井子神社のことか。
井子の南方には大石や芝生田地籍があり、祢津氏の代官がおかれていたきおとから、井子も祢津氏領であったとおもわれる。
これらが滋野神社を勧請したというのであれば、遠からぬ縁があると思われる。

祢津氏支城と新張の風景。

滋野神社から見た新張集落。真っ直ぐ下ると滋野。遠く台地上は望月牧である。

海野氏領の滋野神社、祢津氏領の滋野神社ときて、望月氏の滋野神社が無いのが面白い。ちなみに望月領には滋野氏神の大伴神社とされる神社がある。


2018、5月初訪

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