「滋野村誌」には、規模が東西三十間❨約53m❩、南北二十間❨約36m❩の小台地で、東西に石垣があり、北側には堀があったという。現在はおおよそ工場の駐車場に該当すると思われるが、石垣も堀も分からなくなっている。
往昔から小県方面と小諸方面をつなぐ要路があったと考えられ、交通の要衝であることから城塞が築かれたものとされる。
里伝では、刈谷城と呼び、滋野一族で祢津小次郎直家の後裔である三宅惣右衛門康貞が居住したという。
従って、刈谷城は祢津氏の属城で、400m北の「旦田城」も共に西側勢力に属するものとされる。
古い街道が深沢川対岸に通ずる交通の要所であるが、対岸の滝原には刈屋城に相対する城館が見当たらない。
深沢川を挟んだ対岸勢力が敵対勢力なら、なにかしらの施設が存在した可能性を考えるのが自然だと思われる。
おそらく、当初は対岸勢力を警戒する必要がなかったものが、ある時期に祢津氏側勢力が刈屋城や旦田城を深沢川岸に築いたもののように思われる。祢津氏の警戒する勢力は大井氏であろう。それまでの滝原の勢力は祢津氏と友好的な勢力、滋野一族が考えられそうである。
「滋野村誌」に天正十年❨1582❩徳川軍が佐久郡に入った時の仮の陣であるとあるが、事実と年代に齟齬があることから、「第一次上田攻め」の為に小諸付近に集結した徳川軍の家臣が陣城の一つとして利用した可能性のほうが強いようである。❨「小諸市誌」など❩
東側に名残を感じられる。
西側に深沢に下道路があるが、ここに同じように古い道が通っていたとしたら、まさに最適の立地に刈谷城はあるといえようか。
深沢川の深い谷。
2020、1月「古い街道が深沢川対岸に通ずる…」のくだり追記
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