深沢川西岸、深沢の深い谷の崖縁になり、「滋野村誌」によると、城域はもっと広かったが、寛保二年❨1742❩「乾の満水」によって深沢川の側面が削られたものであろうという。
現地をみると、中心的な郭は西側台地よりずっと低い斜面中段の削平地で北側の民家のところ以外は薮化している。
「信濃の山城と館」でも、城主城歴は不明ながら、立地からして、東向の城で、深沢を挟んで東方を見張るためのものであることが考えられ、南方400mにある「刈屋城❨三宅城❩」も同じで、滋野一族の三宅氏が居住したようで、祢津氏の係累に属するものであることがわかるとある。
不自然なのは、深沢川対岸の滝原に「旦田城」「刈屋城❨三宅城❩」に相対する城館が見当たらないことであるが、おそらく、当初は対岸勢力を警戒する必要がなかったものが、ある時期に祢津氏側勢力が刈屋城や旦田城を深沢川岸に築いたもののように思われる。
それまでの滝原の勢力は祢津氏と友好的な滋野一族の勢力が考えられ、後に祢津氏の警戒した勢力は大井氏であろうと推測する。
旦田城の対岸に相対する所には「塔の峯五輪塔群」があり、寺院の存在が考えられているが何かしらの手掛りにはなるまいか。
❨1❩の郭と北側の民家。
斜面中段の削平地で薮化している。
その西側の深沢堰は堀跡にも見えるが後世のものという。
2020、1月「塔の峯五輪塔群」のくだり追記
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