「滋野村誌」によると、方一五間❨27m❩面積二二五坪❨約742・5平方m❩で、周囲に堀があり、石塁があったという。
井子の古記録によると、美濃国斎藤氏の家臣川久保八郎なる者が、浪人となって信濃を流浪し、井子村に来て「一の城戸に住んだ。次いで安則・その嫡長が川久保新十郎正信で、専ら武芸の道に励んでいたが、後に真言宗系の修験堂を開いて川窪山龍学院と称したという。その後正信の長男が二代を継いで、以来九代にわたり井子で修験堂を守ったとされている。
川久保新十郎は武田氏に仕えたとされ、武田氏が小諸城を占拠した天文二十三年❨1553❩から天正十年❨1582❩の頃かという。❨「小諸市誌」❩
縄張りは「信濃の山城と館」に詳しく、外屋敷と呼ばれる畑地があり、西と南側は崖になっていて屋敷跡と記録されているようで、外屋敷の南に旧街道と一の城戸があるが、その辺り一帯が川窪氏邸跡と推定されるようである。
外屋敷と呼ばれる畑地。
井子集落。旧街道は一本南側になる。
2019、11月初訪
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