2017年10月2日月曜日

横尾城(尾引城・三日城)@真田

内小屋方向から見た横尾城
横尾城は俗に尾引城ともよぶ。長村横尾組小字城にある山城なり。本郭は東西九間一尺、南北十七間、面積一反歩あり、西に堀切あり、南に大手あり、石垣稀に存する所あり。里傳に横尾采女正の築く所にして、村上義清のために陥る所なりとす。(小縣郡史)

横尾城と長尾城

大手とされる登山口

登山口の案内板
 市指定史跡「横尾城跡・内小屋城跡(尾引城跡)」
「尾引城は横尾城または三日城とも呼ばれ、宝永年間(1704~10)の「信濃國絵図」には、横尾采女正の城跡と記されている。横尾氏は、応永七年(1400)の大塔合戦に、実田(真田)氏、曲尾氏とともに参戦したと「大塔物語」記されている人物である。
城の特徴は連続する腰郭が築かれていることである。本郭南側の斜面に小さな折れが連続する城道を設け、その左右に帯状の削平地を交互に設けている。このような遺構は真田地域の山城では本遺構のみである。また西側斜面には竪土居が設けられている。
本郭は現在秋葉社がある部分とその前面の平地部分に分けられる。社殿北側に深さ三mの堀切があることから、社殿のある段には土居が設けられていたと考えられている。
また本郭の背後は尾を引くように細長い尾根が続き、その北方に小曲輪がある。
尾引城の城下町として発達した横尾集落の東側には、土豪等の居館が存在していたと推定される「内小屋」と呼ばれる場所がある。尾引城は古城(内小屋城・打越城)とともに内小屋に付属した城であり、曲尾地区と横尾地区の城が連携して内小屋を守っていたものと考えられる。」(登山口案内板)

横尾氏参照
内小屋館参照
打越城参照。
長尾城 参照。
根小屋城(曲尾城)参照
千古屋城参照

 登りはじめてすぐに段郭らしきものが現れるが、籔に覆われ縄張り図のごとくには見えなかった。

 少し登っての景色。神川対岸の松尾城と天白城が眼前に臨める。

 段郭とあるが、まさに郭の連続である。

 石積は草に覆われ、どこにあるのか確認出来なかった。またこの辺りから東方向に腰郭が取り巻いて、所々に石積が確認できるというが、やはり籔のため確認できなかった。

 南方向には砥石城が見える。

 秋葉社の鳥居。奥の拝殿の見えるところが主郭。

 主郭は大体39×14mほどの長方形で、三段になり、中央の高みは土豪の跡という。(信濃の山城と館)

主郭にある案内板
 真田町指定文化財「史跡  尾引城(横尾城)跡」
「この地域は古くから交通、交易の要所でした。横尾氏はここに城を構えて、城下の横尾を守り、発展させてきました。
この城は、正面南に幾重にも堅固な段郭をめぐらし、主郭の背後は二重の深い堀切で固め、北にのびる尾根の中ほどに、二の郭を築いて北に備えています。
横尾氏は大塔合戦(一四〇〇年)に、祢津軍に属して参戦しています。やがて、戦国の世に村上氏に従って、上田原合戦(一五四八年)で武田軍と戦い、城主横尾采女守は戦死し、残された幼君は家臣と共に上州にのがれました。
以来、この城は真田氏の山城郡の一つとなりました。
現在、この城跡のは秋葉神社とその境内社が祭られています。」(主郭にある案内板)



主郭より南方向を臨む

主郭より東方向を臨む

 拝殿のすぐ後にある本殿である社のある段は土塁の跡という。

社のある土塁跡の後は堀切に向かって10m程の高さがある。
拝殿側から見た主郭
 写真右手に階段があり西側の郭に下りられるが、そこが虎口らしい。

虎口
 虎口とあるが形状はわからなかった。

三重堀切
 虎口から主郭を北側に回り込むと、社のある土塁跡の後の三重の堀切(二重堀切)がある。

 三重の堀切の向こうにでんとある主郭。もう何とも言えない。

 三重の堀切から少し離れて堀切が描かれているが、ほとんど分からない。

北の尾根
 さらに北の尾根を125m)も歩くと、20×12mの郭があるという。(「信濃の山城と館」(宮坂 武男))

20×12mの郭
 その20×12mの郭。狭くて平で無いので土塁があるというものの、そうなのかな程度。雑木に覆われているが、切払えば地蔵峠方面に見通しが効きそうである。

20×12mの郭の堀切
 郭の北側は堀切となり、城郭としてはここまでのようである。

 横尾と曲尾のどちらにも通じるらしい。
このまま長尾城に登城するので横尾方面へ向かう。

 北廻りルートで来るとここに至るのだろうか。とすると、沢を北上しここに至り、先の道標を経て曲尾に抜けるのが「信濃の山城と館」にある打越峠と言うことになるのか。
また同書ではその沢を水の手としている。
この辺りは梅ノ木から水の手を経て、横尾城と長尾城をつなぐ連絡道といえそうだが、城柵くらいは在ったかも知れない。



北廻りルート入口
 横尾城の東側、写真の辺りが字「梅ノ木」。信綱寺の前身である「打越寺」の在ったとされる場所である。
北廻りルートはここから横尾城の東側裾野を沢添いに迂回し、横尾城の北側から登ることになる。

梅ノ木 
「打越寺」の在ったとされる場所であるが、現代の感覚では日当たりのよい場所を好みたくなりそうなものだが、俗世を避ける修験の関係からか、古い寺院の多くがそうであるように、案外この最奥の辺りに在ったのかもしれない。だが、そう古い時代でないなら居館に隣接していたとも考えられる。
その打越寺も横尾氏の開基と伝わっている。
信綱寺も参照。


「信濃の山城と館」の長尾城の項に、「長享日記」の一節を引用し、「長享二年戌申三月帝都ヨリ采地横尾下テ村上顕国ニ属シ佐久小県ニ於武田勢ト大ニ鉾ヲ交エ屡軍功ヲ顕ス
     同年戸石城ノ要害ヲ兼ネ横尾ニ三ヵ所城ヲ築ク   打越城   長尾城  此二ヶ所ㇵ番城トメ  水内高井埴科更科佐久小県諸士交代デ之ヲ守ル  本城ㇵ横尾丹波守吉信ノ居城也…」とあり、その成立と内容については検討を要するが(以下略)とあり、「長享日記」自体の信用性もあるが、長享二年(1488)に横尾城、打越城、長尾城の築城がなされたとしている。
応仁二年(1468)の村上氏千葉攻め以後、海野氏の支配地は上田方面に広がり、太田氏系上田氏に代わり、やがて海野氏の代官小宮山氏が入ると小宮山城(現米山城)を築く。
その小宮山氏を追い出して村上氏が戸石城を築くのだが、「砥石城の築城時期として小宮山氏が武田信昌のもとに走ったのが永正初期の前後であることからみて、永正初年(1504)ころだったかも」(真田町誌)とある。
しかし「長享日記」では戸石城ノ要害が長享二年(1488)に横尾の三ヵ所の城と共に築かれたと云うように受け取れる。
采地横尾に下って」、「本城は横尾丹波守吉信の居城也」などとあり、「打越城と長尾城には水内、高井、埴科、更科、佐久、小県の諸士が交代で番城した」とあることから、横尾城(尾引城)が横尾氏の居城ということになるのかと思われる。
つまり、上田小県地方の要である戸石城を支える城として築かれ、その重要度は村上下の「水内、高井、埴科、更科、佐久、小県の諸士が交代で番城した」ことからも知れるものである。
また、こうした状況は、天文十年(1541)五月の武田、村上、諏訪の連合軍により海野棟綱が上野に逃れた「海野平の戦い」まで、或は武田を対敵として天文二十年(1551年)五月の真田幸隆による「戸石城陥落」まで一応は継続したのではないか。

以上は「長享日記」の記述を前提にした考え方だが、横尾氏は大塔合戦(1400)に、祢津軍に属して参戦していることから、また、「千葉攻め」が洗馬城であろうことから、鎌倉時代には横尾に前身となる城が存在していたとみるほうが自然であろう。

もう一つ興味深いのは「水内、高井、埴科、更科、佐久、小県の諸士が交代で番城した」ことで、「信濃国小県郡年表」にある「横尾曲尾の者共」中、横尾四天王等の謂れにつながりそうな気がすることで、例えば四天王に数えられる神田氏など北信系と思われる氏族と横尾氏との関係などの謎が隠されている気もする。
長尾城 参照。

ともかく当初、横尾氏横尾において海野氏の勢力下にあったが、村上氏の洗馬攻め(1468)以後は村上氏の傘下に降り横尾城を居城に海野、その後は甲斐武田と戦うことになる。
武田により戸石城陥落し、程なく村上氏は越後に落ちるが、横尾氏も上野に落ちていく。その後、横尾城は武田により知行された真田氏の支城の一つとして機能したという流れになろうか。


「真田町誌」によると、横尾氏時代は城山の南側には市の立つ城下町が形成され、内小屋に横尾采女正の屋敷があったとされている。(内小屋には諸説あり)
また、出典は失念したが、古くからの堰によって開墾が進んでいたと思われ、城山の裾野に広がる横尾集落と豊かな田園風景に郷愁を思い浮かべるのは、厳しい戦国期を知らない現代人の貧弱な想像力のためであろうか。

横尾集落と横尾城

2017.秋

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