長尾城と打越城 |
この時は、横尾城(尾引城)からそのまま登ったので、横尾城側から来て長尾城側に向かったことになる。
長尾城の登山ルートは尾引城側と信綱寺側があるらしく、信綱寺側が大手とされる。
登山道から見上げる頂上(城域)。結構な急斜面。
おそらく登城直後に主郭を映したもの。
主郭と土塁 |
これも何を写したかったのか分からないが主郭。
主郭の堀切 |
主郭を南側を向いて写しているらしい。
主郭から南側を見る |
本郭は雑木林に覆われ見通しは良くないが、物見か狼煙台として使われたのではともされているので、本来は展望が良いのかも知れない。
北からみた主郭 |
同じく、少し引いたもの。
堀切 |
平坦な尾根が南に続いている。
ここで信綱墓所方面と金毘羅堂方面に道が岐れているようだ。「信濃の山城と館」(宮坂 武男)の縄張り図にある南尾根先端の平地らしき場所も見たいので、金毘羅堂方面(直進)に進む。
その南尾根先端の平地らしき場所。二段の郭状の地形だが「信濃の山城と館」によると、途中の堀切より先に遺構は無いとしている。だが大手を信綱寺とするならば、ここは正面にあたる場所になる。
西側はほとんど崖と言える急斜面で、樹木が邪魔をしなければかなり見通しが効く。物見の場所ではなかったか。
写真が悪くてわかりづらいが、地蔵峠に向かい傍陽のずっと奥まで見通せる。おそらく根小屋城や洗馬城も眼下に見下ろせよう。
その先で道を見失い、道なき道を下ることになり、麓の出た場所は内小屋の館跡とされるすぐ近く。
内小屋の館跡 |
さて、長尾城は真田町誌の編纂に係る調査で、町誌編集室の柳沢孝雄氏が、横尾村の庄屋を務めた青木家の所蔵文書のなかに、長尾城に関する記述(長享日記)を発見したことが発端で新発見につながったという。
「長享日記」自体の信用性に問題もあるが、原本となるものがあったはずで、地名が残る打越や長尾といった城については、その存在について信頼性があると考えられていたところ、江戸時代に描かれた横尾周辺の絵図面に、地元で長尾と呼んでいる場所に「城」 という文字と郭が描かれているのを柳沢氏が発見し、「長尾城」の姿が徐々に具体的なものとなっていったという。
「真田町誌」の刊行が 平成10年(1998)なので、その何年か前の事になろうか。
「長享日記」の一節、「長享二年戌申三月帝都ヨリ采地横尾下テ村上顕国ニ属シ佐久小県ニ於武田勢ト大ニ鉾ヲ交エ屡軍功ヲ顕ス
一 同年戸石城ノ要害ヲ兼ネ横尾ニ三ヵ所城ヲ築ク 打越城 長尾城 此二ヶ所ㇵ番城トメ 水内高井埴科更科佐久小県諸士交代デ之ヲ守ル 本城ㇵ横尾丹波守吉信ノ居城也(以下略)」とあるのがそうで、長享二年(1488)に戸石城の要害を兼ね、横尾城、打越城、長尾城の築城がなされたとしている。
興味深いのは「打越城 長尾城 此二ヶ所ㇵ番城トメ 水内高井埴科更科佐久小県諸士交代デ之ヲ守ル」とあるところで、「信濃国小県郡年表」にある横尾曲尾の者共の中、横尾四天王等の謂れにつながりそうなところである。
詳しくは横尾城(尾引城)参照。
横尾氏参照
内小屋館参照
打越城参照。
信綱寺 |
「信濃の山城と館」(宮坂 武男)では信綱寺側が大手であろうとしている。
信綱寺は横尾氏滅亡後に真田信綱が打越寺を現在地に移したものであるが、一説には何者かの居館が在った場所とされる。
大手であったならありえることで、村上時代には横尾氏を監視する意味でも村上氏の代官的な何者かが在ったとも推測できる。
ともかく、横尾城(尾引城)、長尾城、打越城が密接な連携にあったのは言うまでもないが、曲尾、洗馬、戸石などと連携して戦国の世に当たっていたことは想像に難くない。
やがて、これらの城は真田氏の山城群となっても、連携して機能したということだろう。
長尾城と尾引城 |
0 件のコメント:
コメントを投稿