2019年11月14日木曜日

笄の渡し@埴科郡坂城町苅屋原

現在笄橋がある付近が「笄の渡し場」(力石の渡し場)と考えられている
ただし、少し下流の苅屋原と千曲市磯部の間に「舟つなぎ石」と呼ばれる大岩が突き出ている場所があったといい、その付近に渡し場があったとも考えられている。 

 「舟つなぎ石」跡の碑。
鉄道を引いたときに大岩は除かれてしまったようで、現在は国道端に案内碑が建っている。

笄橋近くの苅屋原ミニパークには、「笄の渡し」、「横吹」の案内板や「松尾芭蕉碑」などがある。
名勝横吹。
難所である「横吹八丁」のことと、「苅屋原の七不思議」などが書かれている。
昔、「横吹八丁」は「六寸街道の切通し」とともに北国街道の難所だった。

笄の渡し。
時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文二十二年❨1553❩四月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別れ別れに城を後にしたのでした。義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。
千曲川辺に来た義清公の奥方たちは。この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。奥方は我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。
村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。

対岸から見た葛尾城と姫城。
村上義清の夫人は葛尾城落城の際、姫城から急坂を下って刈屋原に降りたといわれる。

苅屋原ミニパークから見た姫城。
現在は枯れてしまったが、かつて苅屋原からは赤松が見えたという。
義清夫人と侍女たちは姫城から抜け出すとき、途中の松の木にタイマツを結びつけて急坂を下った。その赤松が「灯の松」といわれている。

千曲川と自在山
対岸に渡った夫人と侍女たちだが、敵兵に囲まれ自刃したという伝説がある。
現在、上平の自在山麓に「姫宮跡の碑」が建っている。

崖上の比丘尼石
なお、伝説には自害説のほか、船から川へ身投げした「鬼が島」説。対岸に渡ったが、城が落ちるのをみて涙を流した「女涙坂」説。東国寺に駆け込んだ説などがあるようである。
また、対岸に渡らなかった説に、夫人が姿を変えた「比丘尼石」説もある。

「鬼が島」の民話が、長野市真島町川合に伝えられている。
船より千曲川に身を投じた夫人は、千曲川が犀川に合流する付近の川合村万野の中州に漂着した。夫人は百姓夫婦に匿われ、万野の中州には鬼が住み着いていると言い触らしたが。やがて身分の高い村上の落人がいるらしいと噂がたち、武田の武士が中州の隠れ家を襲ったが、そこには人影も、人の住んだ形跡もなく、ただ千曲川の瀬音がするばかりであったという。 義清公の夫人がどこに逃れ、どうなったかは語り伝えられていない。
人の住んだ形跡もなくとは、なんだか怪談じみた話しでもある。




以下Wikipedia葛尾城を引用する
伝説では葛尾城の落城の際、奥方は義清と別れ、ばらばらに落ち延びることになった。千曲川の対岸の力石に渡る際に奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭の心に打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡した。義清夫人を偲んでそれ以降はその渡し場を「笄の渡し」と呼ばれるようになったとされる。しかし、葛尾城の麓の千曲川沿いは高い崖が連なっていたことから「高崖(コウガイ)」と言われていたと伝えられる。また、この時代には崖下の浅瀬を選んで渡渉し、船渡しはまだなかったと考えられる。更には女性が髪を高く結うのは江戸時代になってからのことであり、この時代の女性が笄を髪にさす生活習慣はなかったとの説があって「コウガイ」にこじつけた江戸時代以降の創作と見るむきもある。また結末は無事に越後(高梨氏の本拠地である中野とも言われる)に逃げ延びたとも敵に発見されて自害した、あるいは敵の手にかかって惨殺されたとも様々に語られている。そして話によっては船頭を落人の弱みに付け込み法外な酒手を要求する悪者として描き、奥方は泣く泣く要求に応じたのだ、とする筋書きもある。この奥方は名を「於フ子」と言い高梨氏の娘から村上氏の側室となっていたとされる。(Wikipedia)

Wikipedia於フ子
於フ子(おふね、生年不詳 - 天文22年(1553年))は、戦国時代の女性。高梨澄頼の娘。村上義清の側室。
信濃国中野城主・高梨澄頼の娘として誕生。高梨政頼の姉妹にあたる。北信濃の戦国大名・村上義清の側室となる。嫁いだ正確な時期は不明だが、天文19年(1550年)に父・政頼と村上義清が和睦しているので、その直後とも考えられる。
城から千曲川対岸にある東国寺を目指して脱出し北へ走る。


因みに、「高梨系図」によれば、高梨政頼の姉妹に真田信綱の正室於北がいる。彼女は村上義清の室於フ子の妹になるようである。
村上義清夫人が正室だとしたら、信濃守護小笠原長棟の娘で小笠原長時の妹か姉にあたる。
大河ドラマ風林火山では玉ノ井という名であった。


苅屋原の風景。


「比丘尼石」付近から見た姫城と苅屋原、笄の渡し



2019、10月初訪

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