2019年11月12日火曜日

姫宮跡@埴科郡坂城町大字上平

姫宮跡と葛尾城。
天文二十二年❨1553❩、葛尾城は武田軍に攻められて落城した。
そのとき村上義清夫人は山道を下り、船頭に笄を与えて千曲川の対岸に逃れたという伝承があり、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶ。
しかし、義清夫人は対岸で敵に囲まれたため自刃したという。
現在その場所に、奥方を偲んで「姫宮跡」の碑が立っている。

「姫宮跡の碑」
「天文二十二年❨1553❩に葛尾城が自落した際、逃れた奥方がこの地で自害したと伝わります。」
「寛延三年❨1750❩に建立された石祠が明治三十年頃に自在神社奥社に移転されたため、大正十三年に建碑されました。」

姫宮跡と自在山。
「姫宮の跡」は自在山の東麓になる。
自在山は、岩井堂山、唐傘山、焼飯山の別名もあるようで、山頂は出浦城跡で村上氏の狼煙台とされている。その中腹に自在神社がある。
姫塚の案内板には石祠は自在神社に移されたとあるが、残念ながら自在神社には案内板もなく見当たらなかった。


以下、対岸の「笄の渡し」の案内板から。
笄の渡し
時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文二十二年❨1553❩四月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別れ別れに城を後にしたのでした。義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。
千曲川辺に来た義清公の奥方たちは。この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。奥方は我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。
村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。



天文二十二年❨1553❩の葛尾城陥落に関わる伝承は幾つかのバージョンがあるようである。

まず、葛尾城の支城である姫城付近に在ったことは共通で、おそらく姫城の持つ響きからきたものと思われるが、実際に姫城と岩崎城の中間あたりは「大段」と言われる小屋掛け出来る平地が数段ある。

義清夫人が姫城を脱出するとき松明を結わい付けて山を下ったという「灯の松」がある。姫城主郭の脇の大きな竪堀の際になり結構な急斜面である。恐らくこの竪堀を下ったということなのだろうが、可能であるのかは降りてみていないのでわからない。但しここを下れば確かに刈谷原で、笄の渡しに直近ではある。
ここで違う説は、奥方は岩崎城の方に向かい、村人達の安泰を願って岩になったと云うもので、それが「比丘尼石」の伝説となっている。

さて、夫人は千曲川を渡るわけだが、武田軍は西側の礒部の沢から搦め手に攻撃したと言われている。
この方向が三方向が急斜面で要害の葛尾城の唯一の弱点と言っていい。つまり西方向は寝返った屋代氏、塩崎氏と武田軍によって封鎖されている状況であったといえる。
横吹は千曲川の瀬が洗う難所である。刈谷原から坂城方面に行くのにも千曲川を渡る必要がある。一説に、当時は徒歩での渡河が一般的という人もいるが、兎も角夫人は千曲川の渡しを渡るために船頭を探して対岸に向かうわけである。
「笄の渡し」伝承は、危険をかえりみずに引き受けた船頭に心打たれた奥方が身に付けていた笄を手渡したという話と、ただでは引き受けないという船頭に代金としての笄の話ともあり、また笄自体も後世になっての髪止めで、当時は笄を必要としていなかったとされる説もある。

また、一説に夫人は船から川に飛び込んで、千曲川が犀川と合流する辺りの中洲に漂着し、助けられたという「鬼が島」伝説があり、この説ではどうやら生き延びてはいるらしい。

そして「姫宮」の伝承は、荒砥城に向かう途中で敵兵に囲まれて自害したとか、初め荒砥城へ向かったが城が燃えているのをみて引き返すとき敵に囲まれたとか、惨殺されたとか、落ち延びたとかがあるようで、荒砥城近くで涙を流した「女涙坂」などの伝承もあるという。

さて、荒砥城は村上氏一族の山田氏の城で最後まで戦ったようであるが、同じ一族の屋代氏、塩崎氏が武田方になった以上は葛尾城以上に危険地帯といえる。武田軍は松本方面から麻績を通って千曲市辺りに進軍したとされている。逃げる方向がおかしい。
この義清夫人伝説が史実だとしたら、室賀峠を越えて室賀、塩田方面に逃げるべきではないか。「姫宮跡」がこの場所に在るのはそういうことではないのか。因みに、室賀峠口の狐落城も落ちているので千曲川渡河が選択ミス、刈谷原に下った時点で運命は決まったといえようか。
ところで、義清が葛尾城に居たとして、どのようにして北に脱出したのだろうか。

伝承、伝説はそれとして。


村上義清夫人。正室だとしたら小笠原長棟の娘で小笠原長時の妹か姉にあたる。
大河ドラマ風林火山では玉ノ井という名であった。

ウィキペディアでは、義清正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。側室は中野城主・高梨澄頼の娘で高梨政頼の姉妹にあたる於フ子で、「笄の渡し」「姫宮跡」の伝説に彼女を位置けているが出典は明記されていない。


笄の渡しから見た姫城。
笄の渡しから見た葛尾城と姫城。





2019、10月初訪

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