「小諸市誌」の「市地籍館趾考」にある、居住者の名も知れない館趾の遺構の一つとあるのが、遺構の状況からここであり、付属の地図に「北浦館」とあるところと同じと思われる。よって「北浦館」(仮)とする。
字北浦の微高地で、約40mの幅で東西100~150mの帯状台地がそれと思われる。
100~150mというのは、東側に堀趾かも知れない地形があり、西の堀切からそこまで150mはあり、館趾としてはやけに細長い。途中横切る道までなら100m程だが、中世に多い方形館と比べ横長い敷地には違いない。
南側の区画を示すような細い水路。
水路が北にまわり切った北西の角。写真は西から見たところ。
「市地籍館趾考」にあるように、水路が北にまわり切るあたりの土手上には十数基の五輪塔が残されていた。
この五輪塔群が無かったらこの場所の特定は難しいと思う。
五輪塔群。
堀切向いには町田家の墓地があったが関連性は不明。
現在敷地は葡萄畑になっている。
「市地籍館趾考」に、北側は2~3mの低地が平行し、その一ヶ所に湧水があるとあるが、現在の道路のところであろうか。湧水もわからなかった。
東側中間の(A)堀切地形。
「市地籍館趾考」に、字北浦につづいて南側は字竹ノ花があり、この地に曾て館があって、某領主が居館したことを裏づけしている。とある。
同誌では使用年代及び居住者については推測すら書かれていない。字地が市であることから市が開かれた由縁の地名であること、古い街道が布施川付近から千曲川を渡り、この辺りを通ったのではないかということは❨もう少し南方かもしれないが❩「小諸市誌」にあることで、思うに、そういったことに関わり中世初期に遡る地頭の存在などが考えられるか。
西方400m程のところには五ヶ城があり、古い土豪に起源を発するのではと見られている。至近ゆえ関連が気になる。
2019、11月初訪
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