2019年11月9日土曜日

玄江院@小諸市大字耳取

寺伝では室町時代の文正元年❨1466❩、五領近くの白合地籍に建立した満福寺が元という。
開山僧は礼中玄吊、開基は定かでないが耳取城大井貞隆とも言われている。応仁、文明の乱世により万福寺の道宇は長く荒廃したが、弘治元年❨1555❩大井政継、法号玄江院殿は家督を長子政成に譲って玄江と称する隠館に退去し仏門に帰依したが、万福寺維持復旧の不可能なるを知って之を廃し、自らの隠館玄江の地を喜捨した。開基は大井政継、開山は一族の僧松岩長伊を招き、寺号を玄江院、山号を居城の鷹取山を当てた。
着工から八年後の永禄六年❨1563❩に入山式が行われたという。

因みに、松岩長伊は岩尾城三代の城主大井行真の弟で、天正六年❨1578❩佐久桃源院を開山している。

玄江四世古間清寒の時、時の郡主❨小諸藩主仙石秀久か❩との間に何らかの確執が生じて玄江院から姿を消した。
以来数年無任となり伽藍仏堂は狐狸山禽の栖みかとなった。
真言密教の僧で古山林鶴なる傑僧が復興を決意し改宗、上州阿久津にある玄江院の末寺玄頂寺の住職良達に就いて禅門を修めた後に戻って再興に取り組んだ。
元和年間、耳取城主大井政吉❨政成の子❩は藩主徳川忠長に奉仕して小諸城に在ったが、廃寺同様の父祖由来の菩提寺を改宗してまで心根を傾ける林鶴に同調事にあたり、元和九年❨1623❩伽藍、諸堂の修復を終えた。
故に、耳取城主大井政吉を玄江院中興の開基、古山林鶴をその中興の開山と称えるという。(阿部照雄「小諸市森山の昔語り-森山孝盛・孝を中心として-」より)

門柱は200mほど南の彌美登里神社近くにある。
ここから参道といことになろうか。

山門の前の広い平地は耳取城の堀跡という。
玄江院のある場所は耳取城の南側に位置し、居館がの在ったところで出城であったといわれる。

山門。仁王像。狛犬。

境内、本堂。

経蔵内の宮殿。

鐘楼。

龍磨り石。
水を湛えるなめらかな凹み(穴)を持つ「龍磨り石」を運ぼうとしたが動かず、婦人が裸で石の上に乗って木遣を唄ったら動いた、などという話もある。

昔の村人が鷹取山から運んできたという民話がある。その後段に、この見事な庭石の話を聞いた小諸の殿様羨望し家来を差し向けるが、それと察知した寺院では石工に龍磨石の由来を彫らしめておいたので免れたという話がある。
実際には、安永七年に耳取の茅場地籍から村人総出で運ばれたものであるらしい。それは「小諸市森山の昔語り-森山孝盛・孝を中心として-」❨阿部照雄❩に詳しい。

ほか。

東側面は耳取城の居館跡を偲ばせる土塁跡も。

本堂の裏側に大井氏の墓があるらしいが未見。


「伝万福寺跡」
五領近くの白合地籍に建立した満福寺が元という。
白合地籍はどこかわからないが、「小諸市誌」の巻末ちかくの口碑伝説に万福寺のことが記している。
「耳取の玄江院は以前は五領地籍にあったが、その頃は万福寺といっていた。開山はという僧だという。その後変災に逢って堂塔が荒廃したので、時の城主大井民部が現在の所に寺を移し、己の隠居所の名を取って玄江院と言う様になったと言う。万福寺の跡には今尚礎石がある。
玄江院は昔宮下地籍❨耳取神社の西南約1町にあった。それ故薬師面が八塚❨一塚は凡8・90坪❩程桑畑となって残っている。」
耳取神社の段丘下の西南約100mにあったという口碑伝説である。写真ではよくわからないが、民家のある付近一画が周辺より高地になっている。




2019、10月初訪
2019、11月「伝万福寺跡」追記
2019、11月21日「伝万福寺跡」訂正

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