2019年11月8日金曜日

耳取城@小諸市大字耳取

耳取城大手北側の堀

大井氏は承久の乱(1221)の功により小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にして大井氏を称したのが始まりという。
朝光の子光長には七人の男子があり、三郎行光を継嗣とし、嫡子時光は大室、二男光泰は長瀞(長土呂)、四男の行氏は耳取、五男宗光は森山、六男光盛は平原に住し、七男の光信は僧になり、大井法華堂を開基したと伝える。
大井光長の四男行氏が耳取大井氏の始まりで、初め五領の館にあったのが室町中期以降の乱世になり、より要害の耳取に城を築いて移ったと考えられているようである。
その時期は応仁(1467~1468)、文明(1469~1486)以後で本丸付近から増築を繰り返していったものらしく、「信濃の山城と館」の縄張り図を見ると縦横600m超の範囲に及ぶ巨大な城とわかる。

耳取付近図
大井氏の勢力圏佐久平の西隅の千曲川の断崖上にあり、直近には、北に硲城北ノ城塩川城糠塚山狼煙台等があり、その東に森山城五ヶ城、更に東にいくと鷺林城や東城、長土呂館等、更に東は大井氏の本拠地岩村田の大井城に至る。
耳取大井の最初の拠点、五領の館及び五領城は千曲川沿いに南下した中山道の渡しのある塩名田付近になる。

直近の硲城は小諸から千曲川沿いに南下する塩川道をおさえる場所になり、耳取城の北の関門にあたるとされるが、隣接する北ノ城も名のごとく耳取城の北の守りの一環とされ、更に深い田切を挟んだ塩川城も謂れ不明ながら気になるところである。
もしかしたら立地的に北ノ城は森山城に近い関係かもしれない、森山城は最初岩村田の大井光長の五男宗光が入ったが、惣領家との相続争いから森山大井氏は追放、その後近江の守山氏が入り森山氏を名乗り耳取大井氏の傘下にあったという。
北ノ城の守りが北を意識しているらしいので、塩川城は小諸に入った大井氏に関係あるかもしれない。


耳取城居館跡とされる玄江院
城域の南側にある玄江院の場所が居館の在ったところという。南面は堀跡らしく低地がかなり広い範囲に広がつている。
大手まで廻っていたと思われる堀跡。

玄江院の東側面には土塁が残り、道路が堀跡の面影を残す。

玄江院北側の堀跡。
耳取城はおおよそ田切地形を利用している。この堀も細いが中島曲輪を形成する田切の延長と思われるが人工的なものかもしれない。

玄江院のすぐ北側には中島曲輪と南曲輪がある。
中島曲輪は住宅地、南曲輪は入口がわからなかったが墓地と社らしきものがみえた。玄江院の墓地か。
中島曲輪東隅の祠と社。
中島曲輪と祠。

県道78号から見た南曲輪。
北側の田切から見た南曲輪。

中島曲輪・南曲輪の北側は田切地形を利用した大きな堀で本丸、二の丸、三の丸、馬場、隠居屋敷が並んでいる。

三の丸。
三の丸内部は縁部が土塁状の土手が取巻くように見えるが近代に削平された為かもしれない。


馬場。
奥が隠居屋敷であろうが後ほど。
左が馬場で右手が三の丸。
この北側に観音堂曲輪、荒屋曲輪がある。
荒屋曲輪は墓地になっている。
荒屋曲輪と馬場の間の堀。奥に藤棚曲輪がある。

観音堂曲輪。
観音堂曲輪は県道78号によって分断され、東側に少しだけ残っているところに祠が建っているが熊野神社のようである。

二の丸。
奥の森が本丸付近。

二の丸前の県道沿いに石碑。
下の写真は観音堂曲輪と二の丸の間の道の本丸、西古屋曲輪への入口。
観音堂曲輪と二の丸の間の道を行くと、西古屋曲輪、本丸に到る。
左が二の丸、奥が西古屋曲輪。

おそらく西古屋曲輪はほぼ削り取られていると思われる。
写真中央がおそらく耳取城の別名である鷹取山であろうか。

観音堂曲輪と西古屋曲輪の境の堀跡。
「信濃の山城と館」の縄張り図にある、西古屋曲輪裏の見張の曲輪は確認できなかった。

中央の切れ目が西古屋曲輪と本丸の境の堀跡と思われる。

本丸もおそらくほぼ削平されていると思われ、西古屋曲輪同様西側のみ土塁状に残っているが本来の姿はどうであったろう。

本丸と二の丸の間の堀跡はしっかり残っていた。

本丸の奥には南曲輪が見える。


城域北側付近がもっとも遺構が残っている。❨転載「信濃の山城と館」の縄張り図❩
前出の荒屋曲輪と馬場の間の堀。

藤棚曲輪を廻る堀。
藤棚曲輪。

他にも藤棚曲輪から隠居屋敷付近にかけても堀形地形等見所が多い。

隠居屋敷。
東曲輪。

東曲輪と北曲輪・藤棚曲輪の間の堀。
この堀は南東方面へは道を挟んで大手まで続いている。筆者は耳取城最大の見所のひとつ思っている。

北曲輪の東の堀。
ここまでが城域のようである。

北曲輪。


さて、東曲輪と北曲輪・藤棚曲輪の間の堀は南東方面へは道を挟んで大手辺りまで続いているが、城域外と思われる堀の東側の丘陵に祠や古そうな木と墓地があり何らかの施設が想像されるが、この辺りには似たような地形がいくらか見られる。



大手の町並み。鍵の手もみられる。
大手の最東端、つまり城域の最東端。
道祖神の横の石橋供養塔が気になる。かつて堀に橋が架かっていたものか。また石塔の背後の丘陵の役割も気になるところである。

大手道祖神近くの推定堀跡。

大手南側の推定堀跡。玄江院前の堀から続いているらしい。


最後に、横から見た本丸と千曲川対岸から見た耳取城、鷹取山。

このように佐久平で有数の巨大な城であり見ごたえがある。
すぐ北に硲城、北の城、塩川城、等があるのに、南の五領の館及び五領城まではいくぶんの距離があるように思う。「小諸市誌」に、古い道が布施川が千曲川に合流する辺りから彌美登里神社付近を上り鷺林城に向かっていたとあることからも彌美登里神社付近に何かしらあったかもしれない。
対岸の御牧台上一帯は望月氏の勢力圏と思われるが千曲川対岸の桑山と山浦にはそれぞれ大井氏の関所が在ったという。




2019、10月初訪


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