2020年3月3日火曜日

森山城@小諸市大字森山

北と南の田切地形に挟まれた台地上、森山集落の一部が城域となっている。

岩村田大井氏の大井氏光長には7人の男子がいて。彦太郎時光(大室)、弥次郎光泰(長土呂)、三郎行光(岩村田)、四郎行氏(耳取)、五郎宗光(森山)、六郎光盛(平原)、法華堂大井光信(僧)の7人に大井庄の各地を分領したという。 
五男宗光は森山に入ったが、岩村田宗家に入った三男行光と惣領家相続を争い、行光の代官を殺害してしまったために鎌倉へ訴訟、執権北条時宗の裁きで佐渡へ流されたという。
森山大井氏は離散したと推測されるが、その居館跡は不明だが一説に森山城の西端に位置する「西城」であるとされ、「定本佐久の城」では森山城の支城西古城としている。
その後、近江国守山から守山氏が入りやがて森山氏と改称、耳取大井氏に従属し耳取城の北東の守りとして森山城に拠ったと思われている。
としながらも「小諸市誌」はその居城は定かではないとし、「信濃の山城と館」もその城の位置ははっきりしないと記しているのは森山城以外の城を暗示するかのようだが、森山城の居館の位置と解釈したい。
そしてその位置は、遺構や伝承から森山公民館付近か西城のところであると考えられるとしている。
森山氏は耳取大井氏とともに武田氏に降り、しばしば戦功を残したようである。武田氏が滅び、後の北条と徳川の佐久争乱の際には芦田信蕃(依田信蕃)、耳取大井氏とともに徳川家康に属している。
森山氏は、小諸城の松平康国(芦田信蕃の嫡男)に使え、小諸城加番のときは森山曲輪に入ったという。 
後、森山氏は松平康勝の上州藤岡移封に従って藤岡へ去り。森山城は廃城となった。


耳取城の北面の守りとして硲城北ノ城があり、森山城の西側至近である。規模からその中心基地でなかったか。
さらに北の塩川城や糠塚山繰矢川城が耳取城に関わるかは分からない。小諸の大井氏か柏木氏、平原氏の所属としても塩川城以外はさほど緊張感のある距離ではないように思える。

「信濃の山城と館」を基に作成。

(1)の森山公民館の横に薬師堂がある。
旧寺号「正安寺」というので、この場所に寺があったのだろう。この付近が森山氏の居館のあったと考えられている場所の一つである。

薬師堂の横に古石碑と石塔がある。
「信州森山故城跡」の石碑。
森山俊盛の十一世の子孫で当時幕府の旗本であった森山孝盛が寛政四年(1792)六月に俊盛没後二百年を記念して建碑したもので、森山氏の出自、俊盛の偉業などを顕彰している。
概略は既記したが、詳細は「小諸市誌」、特に「小諸市森山の昔語り 森山隆盛・考を中心として」(阿部照雄著)という素晴らしい著書がある。


「西城」
(4)の所で、東西67.5m、南北40.5m、北面は田切の断崖東西南に土手を巡らせたというが今はない。古いかたちの掻き上げ城であるという。
この西城が森山氏の居館のあったと考えられているもう一つの場所で、また最初に入った森山大井氏の居館のあったところとも考えられている場所である。
四辺が堀切られた平地で、大井氏の居館としては少々手狭な気もするが。専門家が古いかたちの城というのであれば、初期の森山大井氏が入ったのがここであることは考えられるか。
森山氏の居館に関しては上記二ヶ所のほか南側の堀の側も考えられる気もするが、居館跡が寺になることはよく見られるので、最初西城に入ったとしても最終的に森山公民館付近の可能性が濃厚か。
北から見た西城。
西城東側の堀跡(3と4の間)。
西城東側の堀から見た北側の田切。
一枚目の対岸の林は諏訪神社でここに北ノ城と直接連絡する道があってもよい。

森山公民館裏の北側の田切。石碑は失念したが記念碑だったか。
西城東側の堀から森山公民館までの間に、二条の堀が台地を堀切っていたようで、北側の田切にも痕跡が残っている。

二条のうち東側の堀跡(1と2の間)。
二条のうち西側の堀跡(2と3の間)。

東側の堀跡(3と4の間)の南側。高台は(3)の郭でここから西は城外であろう。
北ノ城方面を見る。
三峯神社付近。
馬頭観音や狭い道から、一帯はある程度古い地形が残されているように思える。
近くには他の社もあった。

三峯神社の南側に(3)と(5)の間の堀へ降りる道がある。
郭(5)と堀。
藪で(5)の全容が掴みにくいが、もしかしたら作成図より切り崩されされているかもしれない 。
南の田切地形 。

南側の(2)と(3)の間の堀跡。

表の道。


南側の(1)と(2)の間の堀跡。
堀自体は塀に仕切られた宅地の敷地内で見れなかった。

南側の(1)の堀末端部。

(6)の郭。

森山城の城域東端はよくわからない。
(6)の南の田切地形がはっきりししているのは県道のところまでなので、それより東ということはないと思われる。
東端かわからないが、県道の一本西の水路の折れるところの道とその延長線上が堀跡であるように思える。

森山集落。

森山公民館と薬師堂の東側も堀だったかもしれない。

付近には川内屋敷、南屋敷等の地名があるという。




2019、10月初訪

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