2020年2月29日土曜日

繰矢川城@小諸市乙女

「乙女」地籍、小海線乙女駅の北側が城跡とされ堀切の一部が残っている。

「小諸市誌」に、仮に繰矢川に近い位置にあるので「繰矢川城跡」と呼ぶことにするとあるが、「信州の山城と館」で宮坂氏は、強いて言えば「繰矢川乙女城」と呼ぶべきであろうとある。
確かに、名称が伝わっていないのなら地籍名から「乙女城」とするのが通例的であるのかもしれない。

「乙女」は「大遠見」からの転化であるとされるが、「乙女」地名のこの場所は高所というわけではなく、隣接する「糠塚山」は烽火台と伝承され非常に見晴らしが良かろうが「乙女山」とは呼ばれない。
1km北に「加増城」と「乙女城(大遠見城)」があり、この「乙女城」は高台にあり「加増城」の物見の砦と考えられているが、地名的な直接の関係はないように思える。
1km北東に「柏木城」があり「遠見平」と呼ばれる高台があるが、むしろ「柏木城」を流れる「乙女川」との関係が疑われる。
繰矢川城は「乙女川」と「繰矢川」に挟まれた台地の先端付近に築かれ、「柏木城」にとっては南の要衝ではないかと推察される。
また、東に隣接する四ツ谷地籍は大字柏木に含まれ、柏木氏の氏神という白山社(柏木南城そば)はもと四ツ谷地籍にあったという。
「乙女川」が先か「乙女地名」が先かはわからないが、「柏木城」「柏木氏」に関連が深いものと筆者は考える。

「信州の山城と館」でも、地形的に乙女川沿いであることなどから柏木城の南の守りかとしている。


「信州の山城と館」では、乙女川と繰矢川に挟まれた台地上の線路の北側、(1)を主郭とし、或は堀跡を挟んだ(2)、そして線路部分も堀切だった可能性から、(3)のところも郭だったかもしれないとしている。

(2)の北限がわからないし、東側も曖昧である。森山から繰矢川を渡ったという古い街道がどこを通ったかわからないが、接点があるとしたらこの辺か。
(1)と(2)の西側は乙女川の崖で、(3)の南側も繰矢川の谷が取り巻いている。
もしかしたら図示されていない線路の左側、繰矢川と乙女川が合流する西側の駐車場を含む一帯のところも城域だったかもしれない。

小海線乙女駅の北側が主郭(1)。
線路部分は(3)との堀切だったかも。
主郭(1)。

(1)と(2)の郭の東側。
いくらかの段差が古い街道の名残か。
(1)と(2)の郭の西側は乙女川の崖。

東側の(1)と(2)の間の堀跡。
西側の(1)と(2)の間の堀跡。

(2)の北端付近。

小海線乙女駅のすぐ南側は繰矢川の谷の淵で、その西側の小山が(3)。繰矢川の谷は(3)の南側をぐるりと取り巻いている。
郭(3)。一帯は遊歩道と東屋が建つ。
(3)の南側を取り巻く繰矢川の谷。
(3)の西側の駐車場付近。

この(1)と(3)の西側一帯、繰矢川と乙女川が合流するまでの、駐車場や線路のところも城域だったかもしれない。
(1)と(3)のの間の線路の西側の畑地。

乙女湖公園案内板。
糠塚山。


長野県佐久市岩村田本町オフィシャルサイト いわむらだ.こむ」に、「乙女」地名に関した昔話、繰矢川の淵に住むカメの精と美しい乙女が恋におちる悲話がある。





2020、2月初訪

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