里俗伝に往古乙女城という。そう「加増村誌」(明治十四年)にあるという。
「乙女」は「大遠見」からの転化であるとされ、この地域だけでも「大遠見」「遠見」と呼ばれる場所が三つあるという。柏木城に俗称「遠見平」、繰矢川城のある地名「乙女」、そして加増の「乙女城」❨大遠見城❩で、ほかにも小諸地域では小諸城二の丸の前身「乙女城」(乙女坂城)、芝生田城近くにも俗称「遠見」が見られるようである。
名前から察するように遠くを監視するのに適した立地で、近くの主城の物見の砦と考えられている。
「小諸市誌」では、或いは柏木城に所属し、柏木氏が平原氏に所属していた頃は平原城の西の最前線基地であったのではないかとする。
「信濃の山城と館」では、まず麓の加増城が考えられ、加増城は低地にあり見通しが良くないので設置された物見と考えられるが、加増城の主がはっきりしない為に大遠見城の所属も不明としている。
大雑把に推察すれば、古くは加増城に居住した豪族が設置したもの。或は後に加増城が柏木氏もしくは大井氏に所属して設置された物見といったところか。
城域だが、台地最高所の南北150m、幅20m程の細長い畑地のところ、特に南端部付近を中心にしたところが物見に適したものと思われる。
「加増村誌」に記載記載されているという南北285間、東西220間という数値はともかく、東に本城あり、西に接してニの郭あり、四面空壕を巡らし、南に大手あり、北に搦手ありというのは鵜呑みにしないまでも無視はできない。
「東に本城」とは最高所南端部付近をいうのだろう。「西に接してニの郭」は最高所の細長い畑地の西に一段下がった民家と畑のあるところと思われるが、確かにまとまった平地である。「四面空壕を巡らし」だが、東下方の田切地形、西方にも窪地があり、南はわからないが北方にも窪地があり、そこからの推定城域は南北100m東西200mに及ぶことになる。
「信濃の山城と館」では、南端部を主郭部に、南に一段下がった畑のところをニの郭と暫定し、北方の堀形も城のものとは考えずらいとしている。
たしかに大遠見城を物見の為のものと限定したなら台地南端部付近で事足りるわけだが、城域かどうかはともかく、そういった立地上に大遠見城があることは考慮してもよいように思う。
東側斜面。
この場所には後述する「旭の鏡石」がある。
台地南端の主郭部付近。
主郭部。
二の郭。
二の郭側から主郭部を見る。
「加増村誌」の「南に大手あり」はここか。
二の郭から南に下がったところ。
台地の中心付近。
北方の堀形。
城域でないにしてもの北方守りではあろう。「加増村誌」の「北に搦手あり」もこの辺りか。
西に一段下がったところ、「加増村誌」でいう「ニの郭」の写真は撮り忘れた。
南端部の東側斜面には、里人が往古から「旭の鏡石」と呼ぶ、「小諸市誌」で言うところの円形石造物がある。
自然石に円形を浮き彫りにしたもので、春分・秋分の頃の日の出に正中すると言う。
同誌に新旧二つの鏡石があるとあるが、それらしいものが三つ確認できる。おそらく屋根の掛かった鏡石がオリジナルと思われる。
なぜこの場所にこのような石造物があるのかは謎である。
「旭の鏡石」オリジナルか。
第二の鏡石
第三の鏡石。
2020、2月初訪
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