2019年2月15日金曜日

歯痩医殿@長野市篠ノ井御幣川


幣川神社の鳥居脇にある。


古老の話によると、御幣川に信心深い人がおり、歯痛がひどく、こんな苦しみを人々が繰り替えさないように願(がん)かけを「行之橋」で熱心に行った。満願になると、自ら墓穴に入り鐘を叩きながら念仏を唱えた。上にあけた穴から鐘の音が消えると、人々は土をかぶせて葬った。当時は3年経過して掘り出してミーラになっていたら願いが成就したと信じられていた、人々はミーラになった行者を見つけ、石祠を建ててこの行者をまつりました。 歯瘡医殿に、昭和40年代まで近在の歯痛に悩む人々が訪れた。
 行の橋の場所は東南に800m位のところにある。(幣川区hp)






2019、1月初訪

宝昌寺@長野市篠ノ井御幣川

宝昌寺(ほうしょうじ)
曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

 幣川神社(みことがわじんじゃ)の南に位置し、禅宗の寺である。 群馬県安中市秋間の桂昌寺の末寺 桂昌寺住職の月巣玄鶴和尚が御幣川にきて薬師堂に留まり、境内を拡張して、ここに寺を建て一山を起こし「薬王山宝昌寺」と称し開基した。 本堂で寺子屋を開き村人が学んだ。その後明治六年の学制の発布により通明小学校が本堂を借りて発足、明治十三年まで使用された。(幣川区hp)






医王殿薬師堂
本尊の薬師如来は、身の丈七寸余りの身に甲冑をつけ、左手に瑠璃壷をささげ、右手に鉾を持った木造。
本尊は甲冑をつけ、薬壷と鉾を持った珍しい甲冑薬師如来 ☆ 薬師堂は毎年1月8日、八日堂初縁日でにぎわう。
薬師如来は平維茂(たいら の これもち)伝説によるもので、今を去る約一千年前の冷泉天皇の時代、京都から流刑により戸隠山中の荒倉山に「紅葉」と称する鬼女が住みつき、里に出ては人畜に危害を加え、悪事を働いた。朝廷は平維茂将軍に鬼女を退治するよう命じた。将軍は日頃信仰している薬師如来の加護に頼り、ようやく鬼女をたいじした。将軍は使命を果たしその功により越後守に任ぜられた。村人は鬼女の残党が田畑を荒らすことを恐れ将軍にこの地に残るよう頼んだ。将軍は自分の帰依する薬師の尊仏に甲冑を添えた木像を彫り「甲冑薬師如来」と称し、自分を信じるごとく、薬師如来を信じるように言って越後に旅立った。村人は草堂を立てて安置して、依頼薬師如来の霊験あらたかな仏として信仰を集めた。(幣川区hp)

この辺りは、応永7年(1400)に起った「大塔合戦」の戦場となった地であり、「大塔物語」にある「大塔の古要害」と伝承する悲劇の場所がここから西南の方500m程にある。
宝昌寺境内の薬師堂はその大塔合戦の多くの戦死者を葬った所と伝承する。


蟹の紋が付いた寺 動物の紋は珍しいらしい。
由来は知らない。





2019、1月初訪

向ヒ屋敷見張番所@上田市住吉金剛寺

矢出沢川の断崖上、金剛寺集落と伊勢山を結ぶ道路脇が「向ヒ屋敷見張番所」。
戦国時代、東南方向から金剛寺集落に入る場所であることから番所が置かれたという。
番所は北東の金剛寺峠にも置かれたといい、金剛寺峠は当時上田から傍陽への唯一の街道であったので当然在ったものであろう。
南への配慮としては東條健代神社近くの「高土手」に番所が在ったのかもしれない。
金剛寺集落が城下町として成ったのは村上氏の砥石城時代だが、金剛寺峠がある以上真田氏時代もこれら番所は機能したものであろう。

案内板

五輪塔の残欠が残るというのは、この石積の中と思われる。



石垣に囲まれた平地と、奥には「むかひやしき墓地」と呼ばれる墓地が見える。

向って左は金剛寺集落への道。右が丘を越えて伊勢山集落へ通じる。


2019、2月初訪

長嶋の堀之内@上田市住吉堀之内


小宮山氏居館跡(通称・長島ノ館)とされる。

「千曲真砂」によると米山城とは「小宮山城」とあり、そのことから海野氏の配下の小宮山氏が山城とともに、この堀之内の館も造ったのだろうと考えられている。(「信濃の山城と館」)
小宮山氏は海野氏の一族で佐久の小宮山を所領していた。伴野館を居館としていた伴野氏が、大井氏との争いの中で文明年間(1469~1487)頃に小宮山に隣接する地に前山城を築き拠点を移したころに小宮山を去ったということだろう。
海野氏は佐久地方に支族を出しているが、村上氏が小県に進出してくると上田方面に勢力を注ぐ方針にした形跡がある。
小宮山氏が「小宮山城」を築き、その居住地がこの「堀之内」ではと考えられている。
支配地は虚空蔵山から笹井、岩門、国分寺辺りまでの神科台地の上と考えられているようで、もとは地頭太田氏が領していたものが、何時しか海野小宮山氏が取って代った様子が「御符札之古書」からわかる。

「東條健代神社」の目の前の道。

矢出沢川を挟んで正面一帯が「堀之内」。
「信濃の山城と館」ではこの道のところに「高土手」とあるが説明はない。おそらくこの北200mのところの「高土手」との誤記であろう。

道の右手は「宮平」というらしい。
宮とは東條健代神社のことだろう。

神社前の道から見た「米山城」。
白壁の家の前辺りが「高土手」跡とあるところ。

矢出沢川と対岸一帯の「堀之内」。

矢出沢川。
丸太の橋を渡る。

対岸一帯はそう広くない草藪で3m程の高さの土手下であり天然の堀としたと思われる。
よって土手の上が屋敷地であろうか。

草藪北側の道は虎口にも見えるがどうか。

土手の上は屋敷地内と考えられるが、西側の沢添いはかなり荒地。

矢出沢川と支流の合わさる北西端。
もっとも城跡らしさがあるかと期待したが藪で覆われていた。

矢出沢川の支流と「米山城」。

矢出沢川の支流西方向。
矢出沢川の支流東方向。
北側の境界であろう。

「長嶋の堀之内」全望。

「長嶋の堀之内」と「米山城」。

北側から見た「長嶋の堀之内」

「長嶋の堀之内」から南側を見る。


長嶋の堀之内の西の矢出沢川を渡った北側、東條健代神社の北方200m程の場所に「高土手」があったという。
果樹園造成の際に壊されたが高さ約2m程度の土塁で、金剛寺集落の南城戸として機能したという。

「高土手」の東側は「薬師寺」地名であるようで気になるが未調査。



2019、2月初訪


足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...