2018年12月12日水曜日

宮原神社@上田市真田町傍陽宮原


勧請年暦は不明。社は東西26m、南北20mの広さがある。真田家や仙石家から除地されたとの記録が残っていることから代々この地を治めていた領主から大事にされていたことが推測される。(真田三代 傍陽コースより)

鳥居は少し離れた集落内にある。
奥の森が宮原神社。
向かい合う道祖神。
左右それぞれの結界の間に鳥居とは何の暗示か。


拝殿。
梶の葉紋が至る所にみられる。

祭神は建御名方神と八坂刀売神
諏訪系の神社である。

鎌倉時代建久元年(1190)創祀、室町時代末期本殿建立。永禄二年(1559)真田安房守昌幸上田在城の砌曲尾郷高辻の内四貫八百文除地社附す。嘉永四年(1851)四月吉田家より宮原神社社号許諾あり、昭和五九年堀内猪之助翁が社殿を再建寄贈された。

1300年代のものという御神木という。
木の根の股。こういう所に付き物のあれは無かった。

本殿裏の石祠群。
本殿裏の社。境内社のどれかだろう。

稲荷神社。

本殿を後部から。

裏にいろいろ書いてあったが、土手に迫っていてきちんと読めなかった。

境内から見る横尾城(尾引城)の裏側。


宮原神社は横尾城の北側、横尾集落の裏手になる。南東には洗馬城があり、西は洗馬川を挟んで根古屋城があり、宮原神社はその中間辺りに位置する。

南に横尾城。
北西には洗馬城。
西には根古屋城(曲尾城)。

鳥居を挟んで左右が向かい合う道祖神があったが、それぞれの結界は所領の境界を意味しているとは考えられないか。
根古屋城と洗馬城は曲尾氏に関する城と言われており、横尾城には横尾氏が拠ったとされているが、指呼の距離に在ってその境界は曖昧であることを以前から疑問に思っていた。
宮原集落の歴史を知らないで言うのもなんだが、曲尾氏と横尾氏の所領の境界がこれではないかと思ったわけである。

曲尾の交差点付近から見た宮原集落。
中央の小山の右側が宮原神社の場所だが、周囲は見通しのよい緩い斜面であり、この小山が非常によく目立つ。

古墳か何かであろうと思われるが、書籍等漁っていないので断言はできない。
宮原神社が頂上でなく、東斜面の麓に祀られていることは何か意味がありそうである。

宮原神社の裏手、北東側から見たところ。
さらに北から見たところ。

東側側面。

西側側面。
小山の北方はこんな感じ。

南西側。

南先端付近。
墓地となっている。


古墳、屋敷地跡、砦跡、等考えられるが、掘割や堀の跡など素人にはわからない。
以下参考までに。
境内南側は一段低く、古い鳥居の石柱が残っている。
稲荷社鳥居前の若干の窪地と段差。
稲荷社鳥居前の広い平地は畑跡であったろうが荒れている。
境内裏はわずかに数段になっているが畑地の跡だろうか。

森を北に抜けると畑地で最頂部付近である。
最頂部付近で唯一の石塔か。ただの自然石か。


最頂部付近からの眺め。
結局遺構らしきものは見付からなかった。発掘調査するわけにもいかないので後の研究で何か分かったら追記したい。
ここには何かある。



2018、12月再訪


2018年12月11日火曜日

上洗馬神社@上田市真田町傍陽字上平


御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
秋葉大神(あきはおおかみ)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
創立は不詳です。応永元年(1394年)とも、享禄四年(1531年)諏訪神社の分霊をうつし祀ったものともいわれています。旧上洗馬村の産土神です。元正元年(1621年)に再建の記録があり、また天正年中(1573年~91年)真田昌幸公より洗馬郷の高辻の内、永弐百文除地社附せられ、元和八年(1621年)8月仙石越前守が上田へ入部以来社寺領の改革がありましたが、明治3年10月社号を上洗馬と改称しました。なおここには戸隠信仰があり、干ばつの時には戸隠神社から御水をいただき神前に捧げ降雨祈願したといいます。また、奉納年代は不明ですが「黒馬と白馬」「赤馬と白馬」などが描かれた絵馬が奉納されています(長野県神社庁HP)

諏訪神社の分霊をうつし祀ったものともいわれるとあるが、建御名方も八坂刀売の名もないのは不思議。

鳥居。

拝殿。
「黒馬と白馬」「赤馬と白馬」の絵馬も見える。


本殿。
写真では判り辛いが、かなり豪勢なつくりだと思われる。


鳥居両脇には旧鳥居と思われるものが。

鳥居横の石塔類。

手水舎も見所のひとつ。





本殿後ろに大きな切り株と「御神木之碑」が建っている。
ここに目通り周囲9メートル、樹齢約千年と推定される欅の巨木があったそうだ。昭和五十七年八月一日の台風で基幹を残すのみとなったいう。


享禄4年(1531年)諏訪神社の分霊を勧請(かんじょう) して祀り、明治3年に上洗馬神社と改称した。以前存在し た社叢(しゃそう 神社の森のこと)は欅(けやき)の巨木 を主体としたもので社前に大木が4本あり、最大の木は目通り周囲8.2m、樹高約30mに達し、樹齢は推定800年と推定されていたが現在はその面影を残すのみである。(真田三代 傍陽コースより)

本殿裏の石塔群。

穴沢集落。


中央奥の穴沢集落。右の山間は三島平で半田入谷川が流れる。

宮島武義氏の著書「真田の強さは鉄にあり」の中で、鉄と白山神と諏訪神のかかわりについての例として挙げたなかで、真田郷の半田一族は製鉄神である諏訪神と同じ梶の葉紋を用い、褐鉄鉱を御神体とした古くからの製鉄一族とし、「明治3年半田家の氏神を祀る半田大明神を穴沢周辺の氏神として上洗馬に改名した際、半田一族が半田大明神の織旗を建てたことに対し、他の一族から抗議があり半田一族は窮地に立たされましたが、山家神社と共にあった白山寺が半田側の正当性を上申したことにより、ことなく収まったとする書面が残されており、半田家と白山寺の深い繋がりが推測されます。また、廃仏毀釈の際には白山寺の本尊の十一面観音像(菊理姫)が半田家の菩提寺であった金縄山実相院に移されたことからも、そうした関係を読み取ることができます。さらに、上洗馬神社の末社である三島神社から出たとされる白山神の身正体は、元々半田家にあったものといわれています。」とあり、諏訪神社の根底には白山神があるのではないかとしている。
前後の脈絡があるのだが上洗馬神社に関わる部分だけ転載した。

つまり、誤解を恐れず言うなら上洗馬神社は半田大明神であり、弾正塚宝篋印塔に半田弾正信久の名が伝承されていることから、恐らく半田大明神は半田弾正信久ではとも推測できる。
享禄四年(1531年)諏訪神社の分霊をうつし祀ったというのに、建御名方の名も八坂刀売の名もないのはその為かもしれない。
また、白山神と深い繋がりがあったということで真田氏との関係も想像できるのは面白い。


穴沢集落と左の森が上洗馬神社。奥に穴沢弾正塚の一本松が見える。

穴沢弾正塚の一本松と弾正塚宝篋印塔。



2018、12月再訪
2018、12月同日半田大明神の項追記


弾正塚宝篋印塔@上田市真田町傍陽穴沢

上洗馬神社から穴沢集落を北へ登ったところに松の巨木がある。
これが「穴沢弾正塚の一本松」で樹齢約五百年という。
「鳥が羽を広げたような…」と言われたらしいが、平成26年にに左の枝が折れてしまったという。筆者も以前撮った写真があるはずだがデータがみつからない。

巨松の袂には「弾正塚宝篋印塔」が建ち、これは室町初期の応永十年(1403)建立で、半田弾正の墓塔と伝えられている。
半田弾正の墓とする真偽はわからないが、穴沢には半田家が多く末裔であるのかもしれない。

真田町には、貞治六年(1367)銘の実相院の宝篋印塔、貞治五年(1366)銘の中原宝篋印塔、応永十年(1403)銘の弾正塚宝篋印塔の三つの古い宝篋印塔がある。
実相院と中原の宝篋印塔は、信濃南朝勢力の衰退した時期であり、その関連が考えられるだろうか。
弾正塚宝篋印塔は、応永七年(1400)の大塔合戦の三年後、応永十年(1403)細川兵庫助慈忠が幕府代官として善光寺横山に入り、村上、大井、伴野、井上、須田氏などが
細川兵庫助慈忠が幕府代官として善光寺横山に入った連合して幕府の措置に抵抗したが、そうした幕府支配に抵抗したものに関わるか。


弾正塚宝篋印塔
応永十年(1403)十月十八日の刻銘がある。笠が三階になっているが、第一階の笠から立っていた相輪が失われたあとに、別の小宝篋印塔の笠を一個積み重ねたもので、これを除いて指定した。以前から半田弾正の墓塔と伝えられている。中原地蔵堂と実相院の二塔と共に、上田地域における室町時代前期の記年銘のある三大宝篋印塔で、貴重なものである。

穴沢弾正塚の一本松
目通り周囲四,二五m、樹高約二十m、枝張り東西約二十七m、南北約二十m、樹齢約五百年と推定されるアカマツで、宝篋印塔の創建時に植えられたと推定される。上田小県地方のアカマツの大木として貴重な存在である。


以前は半田弾正云々の説明板があったと記憶しているが無くなっていた。

宝篋印塔。

左の石塔。

右の石灯篭。



傍らには「半田弾正信久600遠忌」の石碑が建っていたが、半田弾正信久の出典が無く、どういった人物かはわからない。
郷土史家である宮島武義氏は著書で、信久の信の字が真田家に代々受け継がれている事に何か因縁があり、真田信綱は洗馬姓を改名した半田一族の者である。といったようなことを記していたと記憶するが、もしそうならば真田氏と半田氏は同祖ということになろうか。

以下参考に引用。
「大型で塔内が中空の宝篋印塔は「一結衆」による集団によって造立された場合が多い。勧進僧の仲介により念仏講などに結縁したり、一族で結衆した人々が集団で造塔するもので、塔内の空洞を蔵骨器と考え、亡くなった人から遺骨の一部や遺髪・爪などを随時投げ入れるものである。その意味では逆修供養塔の性格をもつ。
14 世紀後半から15 世紀前半までに盛行したようで、その後個人の供養塔や墓塔に変わっていった。 一結衆の造塔である旨の銘文や、結縁した人々の道号・戒名の結縁交名があり、それと知ることができる。 貞治6年(1367)銘の実相院宝篋印塔(長野県宝・上田市真田町)は、塔身に「一結□衆」の 銘文を刻む。高さ2mを超える安山岩製の大型塔で、住職の話では中は空洞になっているという。
真田町には実相院塔と類似した大型の宝篋印塔に、貞治5年(1366)銘の中原宝篋印塔(「大檀那道教」銘)、応永10 年(1403)銘の弾正塚宝篋印塔(伝半田弾正墓)の2基がある。内部の空洞や一結衆によるとの銘文は確認されていないが、集団による造塔ではないかと考えられる。
千曲市若宮の佐良志奈神社宝篋印塔(砂岩質凝灰岩製塔)には永和2年(1379)の年紀と「契約結衆四十五人」の銘文を刻む。長野市・善光寺の 応永4年(1397)銘の善光寺宝篋印塔(西塔・凝灰岩製)には、結縁した21人の連名が刻まれている。
今回の調査で中北山五輪平の宝篋印塔と 明科塔ノ原法音寺の宝篋印塔が一結衆による造塔と判断された。 五輪平塔は銘文はないが中が空洞であり、法音寺塔は中が空洞で、基礎に「沙弥□□」「沙弥□□」と刻まれた結縁交名が読める。ともに14世紀後半の製作と考えられ、中世石塔が希薄な中信地区においても、時代の流行であった集団造塔が行われていたことを示す貴重な例が確認できた。」(松本市四賀地区の中世石造物 ―殿村遺跡調査事業に係る調査報告書― 発行日 平成29年3月31日 発行者 松本市教育委員会)




斜め後ろから。赤松の太さが際立つ。
平成26年に折れた枝は太い部分で直径約1メートル、長さ約15メートルというから驚き。


2018、12月再訪
2018、12月「半田弾正信久600遠忌」の項追記

2018年12月7日金曜日

藤沢1号墳・藤沢2号墳@上田市真田町本原

真田町には30基以上の古墳が有ったというが、そのほとんどがろくな調査もなく破壊されてしまったようである。
それらは上田小県地方に有る古墳の北限に位置し、前方後円墳が造られなくなった古墳時代末期、6世紀末~7世紀前半のものと推測される円墳であるという。

藤沢古墳1号・2号は、広山寺古墳に次ぐ大きさという。

上田小県地方に有る古墳の北限に位置というが、市に指定されていない古墳は勿論これらよりも北にはある。


かつて、両古墳の間を上田丸子電鉄北東線の電車の軌道が通っていて、とくに1号墳の墳丘西側を大きく破壊し、現状は南北に長い楕円形を呈するようになってしまった。
2号墳の近く南西にもう一基小円墳が有ったが破壊されてしまったようだ。

かつては上田丸子電鉄北東線の電車の軌道が、両古墳の間を通っていたという。

藤沢1号墳。
南北径13.2m、東西径8.1m、高さ2.8mをはかる。
横穴式石室というが封鎖されていて覗けない。
直刀が出土したという伝承があるが現在は不明。


藤沢2号墳。
現状で南北径9.6m、東西径7.6m、高さ2.8m。
開口部が無いが袂の大石が目を引く。

西側の古い道路からは実に長閑。


2018、11月初訪

足穂神社@東御市本海野岩下

西海野には二つの神社がある。 「足穂神社」は江戸期の村社で、飯縄権現が祀られ元飯縄権現と称していた下吉田村の産土神である。 一方の「 住吉神社 」は寛永8年(1631)千曲川の洪水で流された下深井村の氏子らにより大阪住吉神社から分祀し建立したものであるという。 西海野...