別名丸山親王塚とも大塚古墳とも呼ばれている方墳で、教育委員会によると一辺約52m高さ約12mで、「方墳」としては東日本最大級。円筒埴輪など出土しており、古墳時代中期の5世紀後半の築造と推定。国道18号線と古墳の間には約18mの溝が確認され、古墳の表面は千曲川などの石で覆っていたという。
方墳は出雲地方に多く見られ、出雲系の墳墓との説もある。
「日本霊異記」などから、往古この辺りには大伴氏が勢力を置き、渡来人を率いて牧経営に関わったと考えられ、それらが後の海野氏らの祖となったとの説には説得力がある。
海野宿本陣裏の畑の微高地を大伴氏居館跡に比定する説もあり、金原川近近くでは氏寺跡と思われる遺跡が発掘されている。
また東の方には三分地籍(屯倉)や県地籍があり、大和政権に関わると思われ、古代この地域一帯の中心的な地であったと考えられている。
この古墳には、清和天皇第四皇子貞保親王の墓との伝承があるが無論時代が合わない。後に滋野氏の祖を貞保親王や孫の善淵王に求めたことからの伝承と思われるが、既記のように滋野氏の祖を大伴氏とした場合には滋野系氏族の祖の古墳であるとは言えるのかもしれない。
東500mの「兜塚古墳」は方墳で立地も同段丘上先端と類似するが、付近の「二子塚古墳」は古墳時代後期の円墳で立地的にも相違することは面白い。
この地方の古代の姿を「方墳」がおぼろげながら物語っている。
葺石の跡。
中曽根親王塚古墳
この古墳は大塚(王塚)或いは丸山ともいう。
原形の一部が変形しているが墳丘の基底が方形をなし四隅に稜線が認められるもので、方墳に属する。
墳丘の一部に河原石をもってした葺石の跡がみられる 埴輪の有無は明らかではないが、墳丘をめぐる周濠の存在が確認されている。
内部主体の構造は未だ確認されていないが竪穴式石室の可能性が強い 墳丘の各辺が東西又は南北の線に一致しないところから方墳としては早い時期の構造と考えられるが古墳時代の後半後期に位置すべきものと考えられる。
類例の少ない方墳中規模の大きい点が注目される。
古墳上から南方向を見る。
古代豪族の墳墓は統治領から見える場所に築かれていることが多いようで、千曲川以南はわからないが、本海野、大屋、岩下、辺りがそれにあたりそうである。
2018、7月初訪
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