2018年7月3日火曜日

大伴氏居館@東御市本海野

古代の中央で、朝廷に関り活躍した大伴氏本流についてはここではふれない。
平安時代に信濃・上野・甲斐・武蔵の四か国に「御牧」が32牧設けられ、うち16牧が信濃国に置かれた。
古代に都から信濃に派遣され、牧の経営に関わった者たちが大伴氏の一族とみられており、望月牧・新張牧をはじめ松本市中山の埴原の牧の埴原氏も大伴氏の一族で弘法山古墳は大伴氏のものともいう。
 牧監の下で牧ごとの責任者・牧長として多くの部下を従えていたのが大伴一族だったのではないかと考えられ、牧と関わる望月氏祢津氏海野氏が大伴一族の流れであるという所以である。

大伴氏が関係すると推測されている根拠の一つは「日本霊異記」の大伴連忍勝で、北佐久郡望月町には、大伴神社があることなどである。


海野氏の古城があったという三分は屯倉ではと言われ、この地域一帯が、大和政権と深い関係にあり、信濃の国造もきわめて重要視していた地域であったと推測され、それには大伴氏が関係すると推測されている(「東部町誌」)。

「日本霊異記」に宝亀4年(773)のこととして信濃国小県郡跡目里に住した他田舎人蝦夷の逸話が、宝亀5年(774 )のこととして信濃国小県郡嬢里(おみなのさと)に居住した大伴連忍勝の話しがあり、一族の者たちと力を合わせ村に堂宇を建て一族の氏寺を造ったとある。

大伴氏の居館に関して「東部町誌」では、「日本霊異記」の説話から「法華寺川」の近くで、大伴氏の勢力下に多い方墳である中曽根親王塚古墳兜塚古墳の下方。都に通じる東山道を無視できないとし、大伴氏が海野氏を名乗った時期は分からないが、海野氏居館が白鳥団地のあたりにあったのは海野氏が地方豪族として成長したあとであり、おそらく平安中期から後期にかけてのころといわれており、それ以前は本海野地籍ではないかとしている。
一志茂樹氏は海野宿本陣宅の裏の地形の約六十間四方が周囲の地面よりやや高めの地形で、付近の北屋敷・南屋敷地名などから付近一帯に大伴氏が居を構えたのではと推察している。

 一志茂樹氏のいう海野宿本陣宅の裏の地形だが、現在では特に高めの地形とも言えないかも。

 大伴氏居館跡(推定だが)から見た白鳥台(海野氏居館跡)と中段の馬場(バッパ)。
遠くには烏帽子岳が見える。
古代の族、大伴氏も同じ景色を見ていたのかと思うと不思議な思いがする。

 居館跡のすぐ西側は観音坂への道がある。

 観音坂の東側中段丘(写真奥)は馬場(バッパ)と呼ばれる所で馬場坂があり、観音坂と馬場坂の間は海野氏による太平寺城の大手され大手道が第二段丘上まで通じている。

東側にある馬場坂への道。

 太平寺城への大手道。
 線路を渡ったところ。
土手の上から東側一帯が馬場(バッパ)であるが、周辺の石積が古いものかはわからないが土手は虎口の形状をしているようにも思える。

馬場(バッパ)。
かなり広く丘の畑といった印象だが、畑地としては不自然な石積遺構もみえる。
白い立て札が至る所にあったが、太平寺遺跡発掘跡のマーキングだろうか。
馬場のどの辺りかは知らないが、発掘で中世城館跡に見られるような土器類や青磁器、天目茶碗などが見つかっており、豪族の居館跡か寺院跡といった遺構の存在が推定されるといい、従来から想定されている海野氏居館の一部ではとされているようである。

大伴氏居館の居館跡から離れて、ここで海野氏関連の馬場(バッパ)を取り上げるのは、大伴氏の氏寺がこの馬場に在ったのではと筆者は思うからである。
ここの東側に田沢から流れる金原川があるが、「東部町誌」によると下流域では「法華寺川」と呼んでいるという。
同誌によると、寛永十七年(1640)の「太平寺高帳」に「法華寺」「きつせうじ(吉祥寺)」「法善寺」「大門」「大門先」「大門口」など太平寺も含め寺跡を推察させる地名が残されているという。
それらがどの場所に当てはまるものか筆者には分からないが、白鳥台・本海野付近に大伴氏の氏寺が在った可能性が示唆されるのである。
一志茂樹氏は「…法華寺が本寺で吉祥寺はそれに付属した寺であろう。吉祥寺は吉祥天を祭った寺であり、いかにも奈良時代くさい寺名である。当時、氏寺とはいえ、少なくとも東西南北各々六〇間四方ぐらいの寺域はもっていたと考えられ、その場所は現在白鳥団地を含む一帯ではないか…(「古代・中世の成り立ち」」とあり、「小県郡史」では「海野集落の北方の一段丘をのぼったところは、かつて太平寺村があったところで、その東境を流れる川を法華寺川といったので大伴氏の氏寺はこの地に存在したのではないか。」
また「東部町誌」では「…おそらくは、小字太平寺の東側を流れる法華寺川(金原川)と西側境を流れる盲川(西川・地獄沢とも)にはさまれた段丘上の一区画に位置して氏寺が建てられたのではないか…」と推察し、一方で深井に大御堂という地名をもつところがあり礎石も残されていたという(「小県郡史」)。近くには御堂沢川があり昭和63年の法華寺川付近の発掘によって、柱穴跡が発見された、これを大伴忍勝の氏寺と断定はまだできないが付近一帯が寺跡として関係深いところであることは注目されるとしている。

ここで「東部町誌」は大伴氏の「…氏寺が旧太平寺村付近であったのではないかという推察から、それよりも上の段丘上に居所を持っていたとは、まず、考えられないであろう。
おそらくは、当初は氏寺のあったところより下の段丘の本海野集落の一角に屋敷を構えていたのではないかと考えられる。それが、平安末ごろからか、北方の上の現国道18号線の通じる段丘面のあたり(現白鳥団地西側一帯の地か)に居を移したものと推察される。…」とある。

またこの大伴氏の氏寺に関しては、東深井に御堂地籍があり、そこではとの説もある。

太平寺城の東側面は最大でも金原川(法華寺川)までと思われるが、金原川の東の地字に長縄手がある。長縄手遺跡というらしいが、太い柱を埋設したとみられる一辺1m以上の穴が発掘されており、居館跡か寺院跡に関するものともみられている。


 海野宿と海野宿の本陣宅。この裏手の畑が大伴氏居館と推定される場所である。

近くの中曽根親王塚古墳は5世紀後半のものとされ方墳である。また県下最古の松本市の弘法山古墳も大伴氏に関わるものではと推測されている。



2018、6月再訪

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