2018年7月3日火曜日

布下氏居館@東御市布下

南側から見た布下集落と段丘(E)付近。奥は千曲川で、対岸は滋野桜井になる。

段丘上の全景。この何処かに布下氏居館が在ったと推定されている。

「長野県町村誌」の「布下氏居館址」から気になるワードを拾ってみる。
「…字狐屋敷にあり。里俗伝曰、此地布下氏居館の址なりと、不詳。本城は布岩の巌上にあり、一に該城、諏訪刑部左衛門頼方の居城とあり事跡不詳。…大久保釈尊寺棟札、永正元年(1504)小檀那布下大和守とあり、同棟札に天文十七年(1548)八月、武田晴信の為に、楽巌寺雅方が居城堕ちるとあり。此時布下氏も落城して両氏村上氏に拠り、戸石城を築き居城す。二十二年八月村上義清、上田原の役に敗れて越後に走り、布下、楽巌寺二氏、武田氏に降る。…」
この「布下氏居館址」はここから東に行った山上の「堀之内城(布引城)」の事で布下氏の詰め城とされている城館である。
「信濃の山城と館」では、「布引城」が直線距離で1.5㎞の遠い険しい山の上にあることは、戦乱時には非常に不利な距離であり、おそらくこの居館(布下氏居館)は放棄されたろうと言っている。

「高白斎記」の中、天文17年5月17日、信州布引の城鍬立、同年9月26日「夜望月源三郎(遠江守信雅か)方へ被官衆布引山へ忍び損じ両人討たる。」天文18年3月2日、「七百貫文の御朱印望月源三郎方へ下され候。真田渡す。依田新左衛門請取。」同年5月27日「望月新六同心致し、布引を出て二十八日着府、二十九日酉刻(午後6時)望月新六始めて出仕」とある。
以上のことなどから「北御牧村誌」では、「布引城」は年代は確定しないが布下氏によって築かれ、天文17年武田晴信が攻め取り、手を加え、武田氏の手薄な時期に望月氏・布下氏らが奪い返し、天文18年3月に望月源三郎(推定信雅)、5月に望月新六(推定布下氏)が武田の軍に降るまで持ちこたえ、以後武田氏配下の武将が守るようになった。それが諏訪頼方(頼角)であろう。武田勝頼滅亡後は布下氏は一時期戻ったとされる。その後の布下氏は松平康国に従って相木白岩合戦に参加して勲功があったと伝え、豊明伊勢守は関ケ原の合戦に本田佐渡守組に属して供奉、忠功ありという。(「信濃の山城と館」より)

肝心の「布下氏居館」自体のことは一つも出てこないが、そんな謂れに関わる布下氏の居館跡だということである。

「図説北御牧村の歴史」では、布下地籍字狐屋敷のほぼ中央に石積に囲まれた原野の一画があるとし、このあたり一帯を村人は古くから布下氏の居館跡と語り伝えているという。
「狐屋敷」はBBの敷地とその一帯らしい、その入口付近の民家横に石積が確かにみられる。しかし「北御牧村誌」では、その敷地の狭さと「狐」の用語から否定的にとらえている。
概ね「狐」なんとかと地名のつく所は、見張りの効く所などに多く、忍など下人のイメージがつきまとう。望月氏の重鎮であったろう布下氏の居館地に相応しくないのである。
但し、「狐」地名の多くが見通しの効く高台に多いのに、この一帯は台地の中央に位置していることは気にかかる。
下図の(F)の地点が「狐屋敷」の石積の位置である。


布下氏は楽巌寺と共に望月氏の重臣とされ、あるいは望月氏の執事であったともいい、望月氏の支流であろうと推測されている。
村上義清に降り、戸石城を築いたともいわれるなど地味に興味深い。
そのあたりは望月氏布下氏ら各氏の項で考えてみたい。


雑な図だが解りやすく記号をつけた。
BBの敷地内が「狐屋敷」で、居館跡とする史料もあるが、段丘面を利用したとみるのが自然で、そういった中世の居館跡はこの地方に多くみられるものである。

(D)と(E)の境のせんげとあぜ。
一帯では一番大きな段差であり、一部に石積と耕作されていない樹木が茂る土地がある。
土塁か堀割の跡であるのかも知れないが、東側の崖の傾斜は緩く感じた。
参考までに(E)の段丘下。

(D)。右隅が(E)との境で「信濃の山城と館」にある石積と思われる。
奥の白い倉庫の前には布下集落へ下る道がある。

(C)と(D)の境。布下集落へ下る坂道。
水路でもないのに凹の道で堀跡を想像させる。

(B)と(C)の境。
見た目は分からないが、水路になっているらしい。
(A)と(B)境の坂道を下ると、水気を含む(B)と(C)の谷が合流する。

(B)、奥は(A)

(A)の畑。周りに水田が多い中、この一角だけが畑地であり、かつ石積を使用している。
また、この場所には写真で確認できないので確信はなく、また地蔵か祠かは失念したが、あったように記憶している。

(A)
(A)と(B)境の布下集落へ下る道。

布下集落へ下る道を下ったところ。(A)の先端部。

布下集落へ下る道。
郭状の削平地もみえるが。

布下集落から見て登り口。

(A)の段丘を布下集落北側の道路から見たところ。
道路が開通していなければ、段丘はきじま荘の所まで続いているわけで、南北に走る段丘が西に折れる場所である。ここなら掘割もL字の2条で事足りるし、千曲川対岸も見通せる。城館を築くには適地とも考えられる。

きじま荘周辺は調査しておらず何とも言えないが、(A)は(F)の「狐屋敷」の石積と隣接していることからも、居館と連動した施設があったとも推測でき、印象では第一に(A)から北側を千曲川に面したきじま荘一帯が居館を築くには適しているように思う。

第二には(C)(D)(E)辺りだろうか。特に(D)と(E)の間の石積土塁状遺構は気になる。
無責任な素人の見立てであるが参考までに.


蛇足だが、布下氏の詰城とされる堀之内城(布引城)のすぐ東が楽厳寺氏の楽厳寺城である。これら布下以東の地域に望月氏の支配が及ぶのは室町中期以降とされているが、千曲川北岸の田中の滋野系臼田氏(田中氏)など望月氏系と思われ、逆に望月町春日の春日氏など海野一族であり、茂田井などは佐久の伴野系大井氏支配であるなど、一言で誰の支配地域がどことは言えない程込み入っているようである。
これも直接関係ないが、布下地籍の西の島川原地籍には「縁切り地蔵」があり、中世初期に、この地域最大の市が立った場所とされていて、市坂などの地名が残る。海野、祢津、望月氏の各支配権が接する位置であり、それはどの支配権にも属さない領域をあらわしているという。



現在の布下に布下さんはいないが、長野県下では佐久市桑山と千曲市須坂に多いようである。

 東御市布下2007年「住所でポン!」より参考に。
田中18 渡辺11  荻原11 赤尾9 小山6  木島6 青木6 大熊 4 村松 4 真田 4 佐藤 3 依田 3  白石 3  寺島 2 小泉 2  桜井 2  甘利 2  上野 1  中川 1  中村 1 亀田 1 井上 1  今井 1  伝田 1  吉沢 1  唐沢 1  堀合 1  大口 1  大塚 1  宮坂 1 小林 1  庄司 1  新井 1  早川 1 松下 1 森田 1 61 武田 1 水野 1 浅川 1 渡邉 1 矢島 1 稲崎 1 竹内 1 篠根 1 若林 1 近藤 1 鈴木 1 高野 1 龍野 1

東御市島川原2007年「住所でポン!」より参考に。
渡辺 17 小山 15  高橋 9  島川 5  白川 4  広田 3  中堀 2 河野 2 清水 2 矢野 2  井出 1  伝田 1  佐藤 1  加藤 1  塩川 1  大塚 1  奥山 1  小林 1  尾台 1 岩下 1  恩田 1  新井 1  春原 1  江口 1  沼田 1  渡邉 1  由井 1  相原 1  藤林 1  藤澤 1 藤田 1  西藤 1

北御牧村羽毛山2000年「住所でポン!」より参考に。
竹重 20  岩下 14  渡辺 6  三沢 5  小林 5  柳沢 5  大塚 3  花岡 3  西入 3  保科 2  山田 2  石原 2  緑川 2  西野入 2  青木 2  駒沢 2  両角 1  中堀 1  中村 1  中牧 1  井戸田 1  倉石 1  内川 1  北沢 1  土屋 1  堀内 1  塚田 1  大日向 1  大森 1  安藤 1  宮坂 1  宮沢 1  小宮山 1  小須田 1  尾 1  山崎 1  山浦 1  岸野 1  後藤 1  手塚 1  曲尾 1  木次 1  本田 1  松浦 1  池田 1  深井 1  清水 1  溝口 1  甲斐 1  直井 1


2018、6月初訪
2018、8月加筆

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