2017年12月19日火曜日

海野氏古城@東御市

古城・海野城・物見城とも。
「長野県町村誌」に「海野組字三分にあり東西五町、南北四町、南は高崖、その裾を千曲川がめぐる。南北は平坦の地なり、寛保二年(1742)八月満水にて東南千曲川へ崩壊し、今城地僅か残り畑となり、城の前という地名あり、海野氏代々の城跡なり…」とあるという。
「東部町誌」では居館の規模五町、四町は540m、430mとなり、このような広大な居館は中世にはないとし、城の前という地名も常田の南方で三分とは1㎞も離れているとする。
しかし同書では、海野古城の裾を千曲川がめぐり、南が高崖というのは事実ではないかとする。根拠は佐久の伴野氏・根井氏・大井氏、丸子町の依田氏・長瀬氏ら中世初頭に活躍した武士の居館の多くは、みな段丘崖上に立地し、それは川の働きが今日の社会とは違っていたためでないかとしている。

海野宿と田中小学校の中間の辺り、三分川の西側、写真手前の畑地から、しなの鉄道線路向こうの竹藪密集地、さらに千曲川流域にまで及んでいたらしい。
千曲川の洪水で崩落し、殆どが消滅してしまったという。

「東部町誌」より転載
「東部町誌」海野氏居館の項で三分地籍が千曲川によって大きくえぐられた事を図で説明しており、三分地籍は今よりずっと南方に張り出しており、削り取られた旧東山道に沿って海野氏の館があったのであろうとしている。
しなの鉄道線路から南方の千曲川流域までが館地とすると、旧東山道は館のどちら側を通っていたものか。
「南は高崖、その裾を千曲川がめぐる」位置で、かつしなの鉄道線路付近までとすると旧東山道の道筋は現在とほとんど変わらないということになる。


海野氏代々の城跡というが、年月不詳。後に海野某が太平寺へ城郭を築き移ったという。里俗伝に海野棟綱と云うが不詳。
太平寺城(海野館)参照。
棟綱は天文十年(1541)五月、武田・諏訪・村上連合軍との神川合戦で敗れ、同族とされる真田幸隆共々上州へ逃れている。その後棟綱が帰郷することはなかったと思われることから、それ以前には太平寺城に居を移していたことになる。

すぐ北側は一段髙い段丘になっている。こちら側にも堀があったはずであり、写真のような不自然な窪地はその名残りであろうか?

三分川は今よりも少し東を流れていたらしい。

天然の堀となっていたのだろう。少し上流の段丘上に「信濃の山城と館」地図に奥座とある台地がある。
奥座は海野氏においての家老をいうと何かで見た気もするが、さて。

竹藪密集地も踏み入る隙もなく、遺構の確認は非常に困難そうである。

「信濃の山城と館」地図には三分川を挟んで小太郎屋敷が隣接してある。
ここも遺構の確認は困難そう。

この先に白鳥神社と海野宿がある。
古城のある三分地籍の三分は屯倉ではと言われている。
近くには県があり、千曲川対岸には南方がある。これらが「大宝律令」(701)以前の大和政権と直接結びつくとは到底考えられないが、「…東部町の屯倉は、大和政権の勢力が地方に浸透していく過程で、信濃国造級の豪族によって大和政権に献上、または摂収されるかによって成立した…」(「東部町誌」)ものと考えられ、この地域一帯が、大和政権と深い関係にあり、信濃の国造もきわめて重要視していた地域であったことを裏付けているという。
同書では他に、東部町(現東御市)一帯が古代に交通の要衝地であること、朝廷と関係をもった技術者たち「爪工部」の存在を挙げ、屯倉の主は一志茂樹氏の「大伴氏であろう」という推察を取り上げている。

大伴氏のことは他で考察するとして、大伴氏の氏寺と居館がこの辺りに関係しそうなので少し記す。
信濃に入った大伴氏の一族は信濃各地で牧場を経営したが、海野・祢津・望月の三氏も大伴氏を祖とする一族であろうという説は有力である。
「日本霊異記」(平安時代初期、一説に弘仁13年 (822) )に大伴連忍勝が嬢里(おうな)に住み氏寺を創ったとあり、一志茂樹氏は本海野、海野宿本陣宅の裏の地形が居館あとではと推察し、氏寺は法華寺等の地名から白鳥団地を含む一帯ではないかとしている。
また、近くの中曽根親王塚や兜塚の古墳との関係も指摘されるがここではおいておく。

海野宿は古城と目と鼻の先であり、白鳥団地を含む一帯は海野氏が古城より居を移した太平寺城を含む場所である。
こうした場所を海野氏が継承したところをみると、古城の在った所も大伴氏の何らかの施設があった場所であった可能性が高いのではなかろうか。


海野宿と白鳥神社
小太郎屋敷奥座参照。
海野氏参照。
大伴氏
白鳥神社参照。
興善寺が参照。
海野氏に関しては大族でもあり、勉強不足でこれ以上は書けない。また追記することとする。

海野宿の白鳥神社前から見た古城全貌。


2017秋
2018、5月加筆

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