根津下の城と根津上の城。
祢津方面から見た祢津下の城(祢津城) |
宮嶽山陵神社も砦跡と推測されるが、その真下に当たる麓に宮ノ入祢津氏居館跡がある。
緊急時にはこれらが連携し事に当たったものだろう。
根津上の城参照。
宮嶽山陵神社参照。
宮ノ入祢津氏居館参照。
祢津氏参照。
登坂口。
登坂口案内板。
ここにある「戌亥の馬場」がどこに当たるか分からないのだが、おそらく居館から見た北西の方角、下の城と上の城を繋ぐ丘陵地帯のことであろうと筆者は推察する。
祢津氏は滋野三家の一としてあまりに有名なため、ここでは詳細をしめさないが、信濃国小県郡禰津を本貫地とした氏族で所領は楢原・新張牧を支配したという。
保元の乱(1156)では源義朝に従う信濃武士の一人として禰津神平(新平)がおり、治承四年(1180)の木曽義仲挙兵、承久三年(1221)承久の乱では横田河原の戦いに参戦、南北朝時代にははじめ南朝の新田義貞に属している。
応永七年(1400)大塔合戦では大文字一揆衆の大将として従五位下根津越後守遠光の名があり、大手門攻撃大将として根津越後守遠光、その他根津時貞、貞行、宗直、貞信ら一族や、桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾等の支族庶流諸氏300騎を率いて戦っている。これら記載氏族は祢津氏(もしくは滋野三家)の影響下にあった武士であろう。
祢津・海野・会田・岩下など約300騎の滋野一族のリーダーが祢津遠光で滋野三家の中核を担っていたものと思われていている。 祢津遠光の勢力は、真田、矢沢、横尾、曲尾方面だけでなく、 上田平の浦野川方面には支族の浦野氏や岡村氏もいた。
戦国時代中期以降には天文十年(1541)の武田・村上・諏訪連合により同族の海野氏、真田氏らが本領を追われたが、祢津氏は諏訪神氏ということで許され、以後は武田、北条、上杉、徳川、真田と主を変え命脈をつないだ。
祢津氏は鷹匠の故実家としても有名で、また諏訪氏との結びつきも強く「祢津の歩き巫女」も諏訪信仰に関わるという。
祢津の御姫尊参照。
登坂途中に小諸方面をみる。
中央の台地の裏側が滋野氏発祥地とされている新張地域で、右先端にあたる場所、大日堂から東町歌舞伎舞台や祢津日吉神社のあたりには立地的に砦なりの要害があってもおかしくないが、どうであろう。
この上が第一の郭の遺構。
ここに左右に細長い郭が残る。写真は右側の郭。
右側の郭から左の郭方面をみる。ここから城跡遺構が明確になるようだ。
さほどの労なく主郭部がみえてくる。
「信濃の山城と館」で数段の段郭が描かれるが明瞭には分からない。
主郭を取り巻く腰郭。虎口と思われる遺構あたり。
腰郭から見下げると段郭らしきものが確認できた。
まず目にする主郭の光景。結構広く、土塁に囲まれている。
東側の土塁。
西側の土塁と上田方面の景観。
登って来た登坂路と祢津集落。冬の早朝になら富士山も見えそうな景色。
上田市丸子方面。眼下は海野氏の海野平で、中央の少し左辺りが居館や白鳥神社の場所だろうか。奥には依田城の山影が見える。これらが木曽義仲挙兵の地である。
治承四年(1180)の義仲挙兵には祢津氏も関わり、横田河原の戦いに根津次郎貞行、根津三郎信貞の名がみえる。
守郭を取り囲む土塁。
根津上の城がみえる。
主郭から見た東側の腰郭。
主郭から見た西側の腰郭。
北側、堀切からみた主郭全景。
主郭北側の大堀切。
大堀切に降りてみる。
大堀切からみた主郭。
大堀切は両側とも竪堀となっている。
二の郭からみた大堀切と主郭。
二の郭から東側の郭状削平地を見下ろす。
二の郭全景と、その向こうに大堀切と主郭。
二の郭から三の郭を見下ろす。結構な落差。
三の郭の西側にある竪堀。
三の郭の北側にある巨大堀切。
この辺りから複雑な竪堀の連続となる。
巨大堀切から三の郭を見上げる。
堀切。
何条もの横堀・竪堀が複雑すぎて、もはや把握できない。
巨大堀切の底。
もう一度三の郭を見上げる。
四の郭と「信濃の山城と館」にある池。
四の郭から三の郭を振り返る。
この池の両側に幾つもの竪堀が切られている。
池東側の竪堀。
池の西側の竪堀。
最後の竪堀付近から来た方角を振り返る。
池の東側の竪堀群。
池の先の案内板。畑の石垣は近世のものだろうが、この領域から「戌亥の馬場」と思われる丘陵地帯が下の城と上の城を繋いでいる。
丘陵地帯の両側は急斜面であるが、さらに北はそのまま烏帽子岳の裾野となる為に要害のネックになるとおもわれる。
「信濃の山城と館」では、城域東側の巨大堀切と池周辺の堀切郡が一つになると、石積を伴って遥か下方まで落ちているのが、この城最大の見どころといっている。
二条の堀切は結構深く、城跡側には石積の土塁が続く。
途中振り返り見上げると堀切のシルエットがくっきりとみえた。
辺りには石積の遺構らしきものが。
美しい。
竪堀脇の石積は、おそらく近世の耕作地であろう。
しかし、後で述べるが二重竪堀の機能からそうとも言えない可能性がある。
それでも二条の竪堀は続く。
辺りは明らかな耕作地となっていく。
しかし、後で述べるように、これも小屋掛けした跡地でなかったとは言い難い。
二条の竪堀は消えかけながらも続く。
二条の竪堀の脇に祠があった。
どうやら明治時代のものらしい。
祠の場所から、消えかけた竪堀を少し降ると林道にでた。そこは登坂口の案内板のある所から僅か30mほどの場所であった。
つまり、主郭を中心とした城域の東側全体をほぼ包むように、堀の役割を果たすことになり、ただの竪堀の機能にとどまっていないのである。
これで二条の堀の城域側の石積の意味がわかる気もする。
「戌亥の馬場」と思われる丘陵地帯の下の城近くを軽く探索してみた。
近世のものであろうが立派なものである。
登れそうなので上がってみる。
荒畑。
土塁状のものが。
土塁と堀状の向こうは現役の畑。
土塁の裏側が堀になっているのがわかる。
この堀と石積の組み合わせが、先の二条の竪堀とまったく同じなのは何を意味するものか。
木の裏に竪堀のような遺構もあった。
このあたりは近世の畑地の為のものであろう。
東側の急斜面下に見える削平地。畑のようだ。
東側の急斜面に一段だけ腰郭状にある畑地であるが、かつて郭だったものを利用したものであるかもしれない。
もはや腰郭にしかにえないのだが、どうであろう。
宮嶽山陵神社の真上あたりの尾根上。林道がはしる。
筆者はこれら尾根の丘陵地帯が「戌亥の馬場」と推測するが、上の写真は実際は殆ど近世のものであろう。しかし下の城と上の城を繋ぐ重要な地帯であったろうことから、調査すれば本当に何かしら遺構が残っているかもしれない。
2017冬
2018四月写真追加
2018、8月、祢津城周辺図追記
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