2019年6月14日金曜日

春日城(穴小屋城)@佐久市春日

鹿曲川と春日城
築城時期は不明だが、祢津氏流春日氏が用水堰を開削し春日本郷に「春日本郷館跡」と春日城を築き、1180年頃から1540年代まで360年ほど春日の領主であったとされる。
武田信玄の来攻による地方領主の浮沈があって、敗退した春日氏に代わって依田信守が春日を支配し、その子信蕃との二代にわたって春日本郷の「春日本郷館跡」に拠ったということになるらしい。

春日氏は、「信州滋野氏三家系図」によると祢津氏から分かれた氏族で、祢津神平貞直の子、春日刑部少輔貞親が開発所領を譲られて春日氏の初代となったものだろうという。
天文十年(1541)武田村上諏訪連合軍が小県郡の海野氏を攻め、春日の祢津氏流春日氏が没落したとされる。

また、伴野氏の系図を持つ春日氏があり、「望月町誌」では三明・句領など付近の地名から、国衙の存在が想像でき奈良時代以前の歴史も考えられるとし、別府は伴野氏が得分権を手にした伴野荘春日郷の最初の開発部分ではなかったかとしている。
寛正三年(1462)には伴野氏の代官、鷹野氏が、文明二年(1470)には長城新兵衛道光が伴野氏の代官として春日に地にあった。
「伴野流依田氏系図」にある「守直」の注記に「依田小隼人、生国信濃。信州勝間の城を領す。芦田右衛門佐信蕃が一族となって、伴野を改めて依田と号す」とあるという。

つまり春日には、武田晴信来攻まで祢津氏流春日氏と伴野氏系の春日氏の二系統が存続していたということで、伴野流依田氏は、依田信蕃の系の一族となり、所領を守ろうとしたが、天正十一年(1583)依田信蕃によって勝間城の守りにつくことになったということらしい。(「望月町誌」)

また「望月町誌」では、北にある天神城は文明十一年(1475)大井氏と戦い勝利した伴野氏が天神付近に開発を進め第一期の天神城を構築したとされる。
天文十八年(1549)武田晴信の来攻のとき、「高白斎記」に「三月九日、芦田四郎左衛門、春日の城を再興す。」「四月三日、敵の働きにより、春日の城落城、味方勝利」とある内、どちらか一方の春日城が天神城で、一方が春日本郷の春日城であろうとしながら判断はできないとしながら、「三月九日、芦田四郎左衛門、春日の城を再興す。」は春日城ではないのだはとしている。

依田氏は信蕃のときの活躍が有名であるが、本能寺の変後に故郷に戻り春日城拠って兵を挙げるが、北条の大軍が迫ると6キロ南の小倉城にたてこもったという。
この「小倉城」について「望月町誌」では、文献の用法から、「穴小屋」「芦田小屋」「三沢小屋」等と春日城は同じではないと思われる。と「三沢小屋」は「小倉城」であることを示唆している。


康国寺と春日城。
康国寺は、慶長八年(1603)に松平右衛門大夫康真が兄修理太夫康国の追福のため創立したものである。この康国寺の場所は「春日本郷館跡」とされるところで、「長野県町村誌」にある依田信守と信蕃二代にわたっての居館跡とあるように、依田氏が居館としたとされる。
しかし、そもそもは春日刑部少輔貞親に始まる祢津氏系春日氏の居館であったと考えられているようである。
「望月町誌」では堰と地名をその根拠とし、特に「金井小路」の存在は諏訪神氏である祢津氏や春日氏に関わるのに違いなく、ここ春日本郷に春日氏がおり、その居館は康国寺のところ以外にないとしている。

フリーハンドの縄張り図っぽい絵図。
「信濃の山城と館」に無いところとして、東尾根の道とも堀とも判断できない掘割状のものくらいだろうか。

秋葉社の鳥居の所が大手口になるらしい。

竪堀のような登山路は結構な急斜面。

段郭が続く

三峯社の石祠。比較的新しいもののようだ。

段郭が続く
(ア)の堀切。土橋

(3)の郭は結構な広さで、南側は土塁と(イ)の堀切がある。
北側にある舞台は秋葉社の神楽殿的なものであろうか。

(イ)の堀切と土塁上の石祠。


そして段郭。

(ウ)の堀切。

(ウ)の堀切のすぐ先に(2)郭の切岸がそびえている。

蛇行した(2)郭の切岸の道から下を見る。結構な傾斜である。
(2)の郭、秋葉社が見えてくる。
(2)郭の北側。
(2)郭の南側をみる。奥に秋葉社
北側には土塁のあった形跡がある。
切岸斜面には一部に石もみられた。
(2)郭から北西へ下る急尾根。人工的な切岸だが下の方は弛みがあるようで何かあるのかもしれない。
秋葉社裏手の土塁ははっきりと残っている。
秋葉社。

(カ)から(キ)にかけては、堀としてははっきりしない複雑な形状で、それぞれ堀というより柵等で一連の防御施設が敷かれたとみたい。
「信濃の山城と館」では、(カ)(キ)は竪堀となっていないことから、段差をつけて堀中も曲輪として使ったもので、(1)から(2)は一連の主郭部であるとある。
(カ)の切岸。石積の痕跡がある。

(1)の切岸。加工が粗いようにも感じるが。

(1)の郭。南側には大土塁。
(1)の郭の大土塁。
中央付近の石列は…三角点だった。

大土塁の南側は大堀切。
やはり山城の醍醐味はこれといっていい。

大堀切の南には土塁を挟んで(ケ)があり、二重堀切の形態ともいえる。

(ケ)の堀切。

(ケ)と(コ)は少しはなれている。

(コ)の堀切。

(4)の郭。
「信濃の山城と館」では、(4)と(サ)、東尾根と北尾根、みゆる久保あたりは天正10年時に帰郷した時に手を加えたのではないかとしている。

(サ)の堀。

(サ)の堀の南側尾根は地山が続いているようである。


東尾根を歩いてみる。
東側は麓まで比較的緩やかな斜面で、この尾根に防備を備えるのは必要であったと思える。
「信濃の山城と館」にある段郭と北側の竪堀は幾つか確認できるが、どれがどれであるのか途中から分からなくなってしまった。
この複雑な隆起地形は何なのだろう。

おそらく(ス)の付近。人工的削平地なのは確かだが、日当たりの良い南向きの段郭は城のものなのかどうか。

大きな切岸の郭もある。
位置を見失ったので確信はないが、おそらく縄張り図に無い下の方にも二条の堀切のようなものがあった。

さらに下には林業の作業道路なのか、犬走り敵な郭なのか掘割なのか不明なものがある。
南側やさらに尾根先を確認していないが、北側へ辿ったところ康国寺横から登る道で、春原家墓地の目の前に降りていた。一帯はかつては寺があったのだろうか、法憧寺地籍というらしい。
春原家の墓に「春原家略系」の石碑があったので失敬ながら写真を撮らせていただいた。

麓からの道。
登ると(3)の郭に続いている。
北尾根を歩きたいので登ることにする。
(3)の郭への途中見上げる(イ)の竪堀。


戻って(2)の郭の北側斜面。

(オ)の堀切。
堀切北側は石列がみえる。何のためのものか不明。
長い尾根を下る。
五輪塔の空風部がある…塚?
北尾根一帯はみゆる久保まで段郭が続いているが、西側は崖となっていて登坂は不可能であることからここまでの加工は必要ないように思える。ほとんどは耕作地の可能性が高いのではないか。
段郭下段の広い平地が「みゆる久保」と思われる。
ここが「みゆる」である意味は解らないが、物資の引き上げにここを使われたという。北尾根と北東尾根の付け根に位置し、両尾根に敵が取り付くのを防ぐにはこの場所が非常に重要なようにに思える。

みゆる久保北端付近から見た春日集落。

みゆる久保の山すそにある案内板。

春日城跡
鎌倉期初期より室町時代にかけての春日氏の城跡。は望月氏の同族である小県の祢津氏からでている。
保元の乱で活躍した祢津神平の子貞親が春日氏の祖になり、貞親の子貞幸は承久の乱(1221)に宇治川の戦いで大功を立てて全盛時代をむかえた。永正十三年(1515)には望月氏により滅ぼされその後は望月氏系春日氏の居城となった。
戦国時代には甲州の武田氏に従った芦田氏(依田)の居城となり天正十年(1582)城主
依田信蕃は小田原の北条氏の攻撃を受けたが、身をもって逃れ、後に佐久を平定した。
望月町教育委員会


永正十三年(1515)には望月氏により滅ぼされその後は望月氏系春日氏の居城となった。の出典がわからない。
「望月町誌」等では、天文十年(1541)武田村上諏訪連合軍が小県郡の海野氏を攻めた頃に春日の祢津氏流春日氏が没落したとされてる。
ただ望月氏は、この海野氏・祢津氏攻めには含まれていないことから、連合軍側であった可能性があり。望月氏は当時村上氏についていたとの説もあるが筆者は未確認である。

本能寺の変後に徳川氏の家臣となった依田信蕃は、春日城を本拠に佐久の諸城を攻略したが平定目前、天正十一年(1583)大井行吉が守る岩尾城を攻撃中に弟と共に戦死した。

春日城の麓北側一帯は「堀端」地籍というらしい。地元の方の話しでは昔はここを川が流れていていたのだという。
かつては春日城の西から北にかけて天然の堀が取り巻いていた姿が想像できるが、ここから北西にある「向反の館」も鹿曲川を堀とした立地のものと思うので、鹿曲川の水を引きこんで堀としたということか、現在用水が流れるがその原型のものが利用されたとみるのがよいかもしれない。

大手口の西側の山すそに、八幡宮と五輪塔と宝篋印塔残欠の石群がある。
八幡宮。
鎌倉期から室町期のものとされる五輪塔と宝篋印塔残欠の石群。祢津氏系春日氏にかかわるものか。組み合わせがバラバラだが、昔はもっと在ったのだと地元の方が話されていた。

東側から見た春日城。
右が東尾根で、中央は小庭地籍。


「向反の館」から見た春日城
春日城の北、鹿曲川の対岸に「向反の館」がある。春日氏か芦田氏(依田氏)関連の居館跡であろうとされている。
また、さらに西の山には「火打山狼煙台」があり関連が考えられる。





2019、5月初訪

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