諏訪神社と大宮神社の合社であるようだが謂れはよくわからない。
境内には「王塚古墳」があり、彦狭島王の墳墓と伝承されるかとから「彦狭嶋王御陵」の名がつけられている。
彦狭島王の墳墓と伝承されるものは各地に幾つもあるそうだが、この諏訪王宮神社境内の古墳も彦狭嶋王御陵の伝承がある。しかし実際は古墳の方が300年以上も新しい時代のものらしい。また、正確な名称は忘れたが、近隣には皇后古墳や皇子古墳があり、彦狭嶋王伝説を後押ししている。
関連は不明だが300m西には内城(比田井の城山)があり、「長野県町村誌」では、故に王城、内裏窪の地名があるといい、按に古昔官舎の地なるべしとある。
彦狭島王伝承は伝承としても、この地の古い歴史が偲ばれる。
読めないけど。
『日本書紀』の景行天皇55年2月の条に「彦狭嶋王を以って、東山道の都督(かみ)を拝(ま)け給ふ。是、豊城命の孫なり」の記事が見える。豊城命は豊城入彦のことで、上毛野(かみつけぬ・群馬)下毛野(しもつけぬ)君の始祖であるそうな。孫の彦狭嶋王が春日の穴咋邑(あなくいむら)に到り病に臥(ふ)して亡くなった。東国の百姓、この王が来なかったことを悲しんで、ひそかに王の亡きがらを盗んで上野国(かみつけののくに)に葬ったそうな。春日穴咋邑は今の奈良市古市町で猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地でもあるが、旧望月町では春日地区一帯に比定する考えが有力である。(「週刊上田」93 伝承を読む 旧望月町⑦(2007年8月25日号)
亡きがらを盗んで葬ったのが上野国(群馬県)である事から、彦狭嶋王が病に臥して亡くなった春日の穴咋邑はこの地であるとみるのが自然という考え方であるらしい。
境内。
御神木。
参道脇の民家(神主宅?)前にある石塔の残欠。
境内社。
「望月町誌」によると、横穴式の円墳であるが入口は確認できないとある。
かなり昔から柵で取り囲んで祀られていたようで、その昔、田の代掻をしていた馬が離れ王塚に駆上り即死したとか、ネット上「諏訪大社と諏訪神社」にも「二百年以前の由、少女幼児負い春摘み草に出、王塚に登り二人共即死致し…」などとあり、この古墳に乗ると祟りがあると語り継がれているという。
2019、6月初訪
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