2018年11月20日火曜日

天白城@上田市真田町本原

左の平坦な尾根が天白城。
本原下郷沢付近からの写真だが、遠くの豊里方面からでも同じように見え、神科方面染谷台からも確認できる山城である。

中央の山尾根が天白城、左中央の林は真田氏館(お屋敷)
真田信綱が本原の御屋敷とともに築城したと伝承するが、幸隆との説もある。
隣接する真田本城(松尾城)の支城として築城されたとされているが、比高の少ない本城に対して上田方面への展望が優れていることが特筆される。
また、中原の延命地蔵堂には貞治二年(1363)の「中原石造宝篋印塔」があり古い町とおもわれるが、その原の町から御屋敷への道に屋敷割があり、拠点を原の郷に移したときに城下町の形成を考えていたことが伺える。
その方角に段郭を備えた天白城との位置関係なども考慮したい。
つまり、本原城下からは真田本城と天白城の威容を仰ぐかたちになっているのである。
しかし信綱が長篠に討死したためだろう、真田氏館は短命に終わったと推測されている。
そのあと真田家を継いだ昌幸は砥石城を拠点とし伊勢山に城下町を形成している。
真田氏館には信綱の妻於北が暮らしたというが、真田本城・天白城・真田氏館は信綱の夢の跡と言えるかもしれない。

赤井集落からみた天白城。

赤井集落の天白城登山口。


北赤井神社の拝殿と五輪塔郡。
本宮は登山道の中腹にある。

北赤井神社の拝殿には案内板があった。
実際には、西の段郭は殆んど竹藪に覆われて、この縄張り図のままに確認することは難しい。
また現在は遺構跡までの道筋は「信濃の山城と館」の縄張り図とも多少変わっているようである。


獣除けの柵を開けて入る。

一帯は畑地跡の石積。
足下の赤井集落。
程なく北赤井神社奥社(本宮)に行き着く。
磐座には祠が点在するが、この磐座が神社のご神体であるという。また磐座に点在する赤松には霊気が宿ると言われて、江戸時代には上田城祭りの山車に掲げられたとか。

「信濃の山城と館」には、この上の方に祠が二つと竪堀が描かれるが確認はしなかった。

北赤井神社の案内板縄張り図には無いが、「信濃の山城と館」にある一番西の小さな郭状の平地がこの上。

ここから初めて真田本城と十林寺集落が見える。

すぐ近くの二つ目の郭は結構広い。
案内板の縄張り図はさっきの郭とこの郭を一つに描いているのかもしれない。

ここからが面白いのだが、道の両側は密生した竹藪の為に段郭の確認は難しい。七段ほどの段郭があるらしいが縄張り図を片手に登りたい。

本来の登城路かはわからないが、なんども折れ曲がり、幾つかの石積も見られ桝形かとも思える虎口状のところも見受けられる。

この上が主郭。
「真田町誌」に虎口は無いとあるので、本来も梯子がかけられていたものか。

主郭西側側面の石積。

主郭。
遠くの山は真田氏が崇拝した四阿山。

主郭からみえる西の段郭。
二段ほどは綺麗に確認できた。

主郭東側の土塁。
横からみた土塁。

土塁上から見た主郭。
「上田小県誌」に、土塁は南側と西側に築かれ、冬の寒風を防ぐ目的ももつ土塁を北側に設けない構築は真田地区の他の城跡と異なった意味を感ずる。とあるが確かに北側が開けている。

主郭の案内板。

主郭から見た真田本城。
沢を挟んだ至近の距離であり、両城が連携した関係であったと思わないわけにはいかない。

真田本城と四阿山。
真田・四阿山・上州道の関係性が一目でわかる写真。


主郭土塁上からみた東側の大堀切。

大堀切に降りるときに見える土塁側面の石積。
土塁裏の石積。

山城の最大の見所の一つである大堀切。
天白城のそれは、岩を砕いて造ったという。

大堀切内部。

大堀切内部南側。

大堀切内部北側。
これはかなり下まで竪堀となり、尽きる辺りに水の手がある。この堀底道を下って水を汲み上げたと伝承があるといい、近年まで赤井集落から十林寺集落への生活道路として使われていたという。

さらに大堀切東側。堀と竪土塁という。
つまり二重堀ということになるが、こちらは埋もれている為か堀は浅く、間の土塁もそうなのかなという感じ。

二重堀の間の土塁。

二重堀越しに主郭を見る。

堀切の東側の山尾根方面。
十林寺側への道があるようだが今回は未調査。

赤井集落側を見下ろす。
上田方面を望む。
写真はわかりづらいが中央が砥石城。



さて、下山は近年まで生活道路として使われていたという堀底道を水の手まで下ってみた。
振り返る。
途中に作業用の道に遮られたが、かなりしっかりと堀跡は残っていた。

明らかな作畑跡地が現れるところで堀遺構は途切れる。
本来はもう少しつづいていたかも知れないが、違和感なく自然に消滅する感じでもある。

堀が途切れたすぐ東側は湧水が数か所ある。ここが水の手であろう。

湧水の少し上の方に鳥居が見えた。

山神社らしい。幾つか祠もあった。

さらに下るとこんな感じ。

真田本城が目の前に見えた。

振り返ると天白城。
「城満」や「勝負沢」はこの辺りの何処かの地名かと思われる。

こちら側にも獣除けの柵があり、妙に太い針金。熊久保まで金網沿いに歩かされバイオハザード感を味わえる。


熊久保方面から見た天白城。

真田本城の下を通り、旧菅平有料道路を赤井へ向かう。

旧菅平有料道路からみた真田本城。
実は真田本城には鎌倉期にみられる古い縄張りがあるといい、かなり古い城の可能性があるという。

北赤井神社の少し西側からみた天白城。
写真は十林寺方面への古い道と思われる。北赤井神社の西側に刀剣出土の「小屋場」とは北赤井神社からこの辺りまでのどこかであろうか。


豊里から見た真田方面。
中央矢沢城の奥に天白城。左の小山は伊勢崎城(虚空蔵城)で奥が横尾城長尾城。見切れた左には砥石城がある。
本原の本拠地に在って、上田方面の真田の入口付近は容易に監視できるということであり、天白城の最大の存在意義と個人的には思っている。


2018、11月初訪

1 件のコメント:

  1. 大変申し訳ありませんが北赤井神社本宮の写真をお借りしました。済みません

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