地元では荒神山と呼ぶ北西隅の土塁跡。
塁上の小屋には石祠がある。
戦国時代までこの地を領した小森遠江守の館跡と伝承されている。
「長野県町村誌」に、四面空堀、回字形をしているとあり、小森氏が居城したと云うが事跡は不明とある。
大正末期頃の千曲川築堤工事により現在は堤防道路に分断された形になっているが、比較的全容はつかみやすい。
出典はわからないが、小森氏は諏訪氏の一族という。
このあたりは折を見て地域との関連等から推察出来たらと思う。
現在長野市若穂川田に小森姓が20戸ほどあるといい、小森氏の末裔という。
地元では土塁跡を荒神山と呼ぶので荒神社であろうか。安産の神様であるともいう。
慶安四年(1651)の年号と「小森云々」の文字がみえるという。
土塁西側脇の堀跡とおもわれる。
水路が通っているので、もとは濠が取り巻いていたのかもしれない。
土塁北側の堀跡。
土塁の東側周辺。
笹藪の所が堀の延長線上にあたる。
堤防道路上から見ると方形を斜め半分にした三角形をしているとよくわかる。
方形の残り半分の三角形は堤防道路の反対側、南側に形状を確認できる。
堤防道路を挟んで回字形の方形を見て取れるのは、ある意味感動である。
因みに奥の山は、第四次川中島合戦で上杉謙信が陣を敷いたという妻女山・斎場山である。
西側の道から見た小森氏館。
東側と西側には外郭があったという。
西側の外郭はここらから左の住宅地一帯であろう。
東側の外郭は堤防道路の南側になろう。
堤防道路と足下の土塁遺構。
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