祭神は村上大國魂社、建御名方命、八坂刀賣命、大國魂命という。
「古くは泉口明神と言った。当社が上社で、下社は綱掛の宮沖にあったが、上五明に遷座し、現在は村上神社となっている。社記によると天徳2(958)年村上天皇の第4王子為平親王が村上郷に下向して御所を造営し、泉口御所と称し諏訪明神を祭り泉口明神と言った。その後村上氏代々の氏神として崇敬されたが、天文22(1553)年武田村上の兵火により焼失した。天正11(1583)年村上義清の子国清が上杉氏の臣として旧領に復した時社殿を再建。上杉氏会津移封に従って村上氏が奥州に移った後は村落で祭典を行い、村の氏神として祭り現在に至る。十六夜観月殿がある。周辺の景観はすばらしい。『いさよいもまた更級の郡かな』芭蕉碑有り。」(「長野県神社庁」HP)
網掛の越堂にあった真言宗実成坊は、後に西教寺と改称し上五明に移るが、村上大国魂社の別当寺であった。
大国神と彫ってある石碑。元治元年(1864)に建立されものとある。
左手は十六夜観月殿。
右手が村上大國魂社。
顯清社
祭神 村上顕清
由緒
村上為国父ノ霊ヲ祀ルト云フ
義光社
祭神 村上義光 村上義隆
由緒
当村 村上城ニ於テ出生ス 父子吉野ニ於テ壮烈ナル戦死ヲ遂グ因リテ其ノ霊ヲ祀ル
村上顕清は嘉保元年(1094)の白河院呪詛事件に連座して信濃国へ配流されたというが、越前国への配流など異説もある。
源為国は顕清の養子とされ、信濃村上氏の祖とされる。
村上義光 、村上義隆父子は「太平記」に護良親王方として逸話が残る。
義光 ・義隆父子は安信系に連なり、後の義清も安信系とおもわれる。
信濃村上氏は為国の子の世代に数流あり、また屋代氏・出浦氏・栗田氏・千田氏・小野沢氏など多くの支族を出しているというが、「尊卑分脈」等系図には混乱がみられ系譜は掴み難い。
天満宮。
天満宮横の墓石と石祠、石塔。不明。
村上大國魂社拝殿。
梶紋からも諏訪社と知れる。
御柱祭もあるようだ。
裏手にある子育て地蔵。
村上大國魂社の北側にある十六夜観月殿。
「 十六夜観月殿
昭和50年3月6日 町指定
平安時代の寛治八年(1094)に都から信濃国更級郡村上郷へ流され、村上氏の祖となったという源盛清が、配所の月をここに眺めて心を慰めたと里人は伝える。
のち元中年間(1384~1392)に、村上満清がこの場所に観月殿を建てたが、天文二十二年(1553)に武田氏の攻略の際兵火にかかり焼失したという。 江戸時代の寛永年間(1624~1645)に郷人によって再建された。現在のものは寛政三年(1856)に再々建されたものである。
この地は古来更級八景のひとつに数えられ、その展望と十六夜観月の勝地として知られている。貞享五年元禄と改元(1688)に俳人芭蕉も更級紀行の途
いさよいもまた更科の郡かな
の名句を残している。この句碑が庭前に建立されている。今も遠近の雅客がたえずここを訪れ俳筵をのべて楽しまれている。
十六夜八景
葛尾の晴嵐 十六夜の秋月 猪落の夜雨
千曲の帰帆 福泉寺の晩鐘 鰕島の落雁
太郎山の夕照 戸隠の暮雪
昭和55年3月 坂城町教育委員会 」
句碑には「いさよいもまだ更科の郡かな」とあるらしい。
「桃青霊神」とあるが、桃青は芭蕉の俳号の一つかな。
正面には葛尾城。
左隅の岩井堂山は出浦城跡でもある。奥に荒砥城もみえる。
南条方面。
中央の峰が虚空蔵山城で右尾根は和合城。
2018、11月初訪
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