2018年10月26日金曜日

日向の館@上田市真田町長角間日向

松尾古城の南麓一帯が真田氏の古い居館跡と伝えられ、日向畑遺跡や安知羅明神、阿弥陀堂があるところで、かつては真田氏の菩提所であったと伝えられる常福院とよばれた寺院があったことが記録にあるという。
松尾古城尾根北麓の「上野屋敷の館」や大日向の「城っ平城」が鳥居峠を越える上州街道を監視するものなら、「日向の館」は上州街道から横沢集落で分かれて角間集落を抜け角間峠を越えて上州に通じる道を監視するものであったろう。
松尾古城はこうした交通の要所であり戦乱期にあっては重要な軍事拠点であったとされる。
また松尾古城は真田氏の初期の拠点の城とされることから、その麓の「日向の館」は真田氏に深く関わる者の居館跡と考えられている。

しかし、「…地方武士の根古屋的居館が存在したとしても、やゝ狭小にすぎ、角間の集落に接する地域に比較的広大な場所があり、また松尾古城の水の手を背にし、古城への容易な登り口にも当る地点に堀り割とも目すべき微地形がある。 この地点を真田氏居館跡と推考すれば、 日向畑の地籍は、古来真田氏の菩提所と伝えられる松尾山常福院廃寺址にあたる。そして日向畑の墳墓址はこの常福院の寺院墓と考えるのが妥当であろう。」(「真田町日向畑遺跡発掘調査報告書」昭和48年5月30日刊行真田町教育委員会)という。
角問集落西側の一帯も真田氏の最初の居館跡として考証されているようで、「真田町誌」の松尾城跡付近図にもその付近を「大手」とし、そこに居館を構えていた可能性が高いように思える。

一方の常福院は創建時期は不明とするが、墳墓の多くは室町時代から戦国時代にわたるもので、最古の五輪塔は南北朝期頃というので、南北朝期の14世紀から織豊政権下の16世紀の中ごろまで、 200年余にわたっているものと推定でき、ほぼそれに準じてよいかと思う。
「真田町日向畑遺跡発掘調査報告書」によると、「…23基の火葬骨を伴なう墳墓址は、主人と夫人、川西村東昌寺の例のように、更に側室をも含むとしても、3人およそ8代にわたることになる。 1代およそ30年と推計すれば、23基の墳墓址は、240年にわたることになり、仏塔の推定と完全に一致することになる。」とし、真田氏初見の「大塔物語」にある1400年の大塔合戦(応永7年)の「実田」に間に合いそうである。

つまり、日向畑遺跡には真田氏初見の大塔合戦頃には常福院が存在したかもしれず、松尾古城が真田氏に関連するのであれば、当時の真田氏居館はここではないことになる。
近く「上野屋敷」や「山家の館」もあるが、やはり東へ行った水の手下の「大手」が気になるところか。


角間橋付近から見た日向畑遺跡。
日向畑遺跡入口。

日向畑遺跡の墳墓群。
日向畑遺跡は、常福院境内にあたる場所と見られるが、長い年月のうちに、山極の畑となっていたところで発見された。五輪塔と宝篋印塔を墓塔とした墳墓跡で、全体として23か所の納骨遺構が確認されている。時代については室町から戦国にかけてのものと推定されるが最古の五輪塔は南北朝期頃というのは前記した。

発掘調査では、宝筐印塔・五輪塔・鉄鎌・刀子・古銭・土器 。石器および火葬骨などが検出されている。
五輪塔は風空輪が9個 、火輪が7個 、水輪が3個 、地輪が11基などで、完存のものはないという。
宝筐印塔は、相輪部分は4個体、屋蓋部の笠は馬耳形突起の隅飾りが6個体と同破片4個。6基の基礎がほぼ完全な形で検出されたが、塔身が1体も検出されなかったという。
地輪の並びと納骨の状態から、東西三列の並びであったらしい。

また、宝筐印塔は全体的にやや古い時期に属するものが多く、真田町傍陽大庭の耕雲寺の塔群に類似するものが多いという。
耕雲寺は永録二年(一五五九)村上義清が開基と伝わるが、側の根小屋城に関わる曲尾氏の菩提寺といわれ、曲尾横尾実田はともに「大塔物語」に名のある氏族で地縁的にも興味深い。
しかも耕雲寺の仏塔の数が示す規模は日向畑遺跡を浚駕するといい、一方横尾氏の尾引城の麓にも仏塔が散見するが、群集墓といえるものは未だ確認されていないという。
横尾氏に関しては四日市地籍のかなりの墓が神川に流されたと言われているのでその為かも知れないが発見が待たれるところである。

前面中央部に参道と推定される配石遺構と、墳墓背後にも石垣遺構が確認されている。

「仏塔の年代から推定した墳墓址の終末期は真田長谷寺に葬られた笑傲院殿月峯良心大庵主真田幸隆 (1513~ 1574)の前まであり、幸隆以前で南北朝の動乱期以後の真田一族がここ日向畑遺跡の墳墓址に葬られたと考えるのが妥当であろう。
従って、「真田家系図」・「寛政重修諸家譜 」・「 真武内伝」・「 滋野世紀」等の示す「海野小太郎禅正忠幸隆が真田の庄に住し、この時より始めて真田と名乗る」とする説はとることができない。
「大塔物語」に祢津氏一党として示されている実田・横尾・曲尾は、現真田町の長・横尾・曲尾のおよそ旧一村ぐらいを支配する地方武士で、実田 (真田)氏の日向畑遺跡の墳墓址と曲尾氏の居城や居館と墳墓址の位置関係、仏塔製作の手法が類似し、この地方の葬制を知ることができる。真田氏は、その後しだいに勢力を伸ばし、永享の結城合戦には、村上頼清配下の北信濃武士団の中で、海野十郎、祢津小二郎、真田源太、同源五、同源六などと銘記されるほどに成長している。
従って、真田氏は「大塔物語」の示すように、真田町の長地域で形成された地方的武士であり、「真田系図」のいうような幸隆以後の海野氏系豪族ではあり得ない。
海野氏との関係は、勢力の伸長に伴なって、婚姻関係を結び、幸隆が「棟綱女系の孫に当る」とする藤沢直枝氏の論究は、史実に近いものと考えられる。系図 としては「矢沢系図」がこれに近 い。(「真田町日向畑遺跡発掘調査報告書」昭和48年5月30日刊行真田町教育委員会)。

また「真田町日向畑遺跡発掘調査報告書」には日向畑遺跡の仏塔のかなりの部分が作為的に失われている理由として
1「真田系図」の示す幸隆の記述と矛盾するため、幸隆以前の先祖の事実を抹殺した。
2 天文10年 (1541)の神川合戦に敗退して上州に落ちのびる際に敵軍の眼から先祖の墓を隠した。
3上記敗戦の際に、武田・村上・諏訪などの敵軍によつて荒された。
しかし、3の場合は仏塔の部分だけが滅失されるだけでなく、墳墓もあばかれる筈であるが、特にそうした事実は認められなかった。
とある。
筆者がこの三っからとるとしたら「失われている」事から1であろうか。
銘などが刻印されていたかもしれない宝筐印塔の塔身が1体も検出されなかったことは、上記と辻褄が合い、2は齟齬する。
3は墳墓があばかれないまでも「失われている」理由にはならない。
「失われている」理由としては、後世に再利用などの為持ち運ばれた可能性もあるが、いずれにせよ謎である。


日向畑遺跡から見た南方の風景。

日向畑遺跡の横、東側は松尾山常福院跡とされる。
真田氏の菩提所であったが後に長谷寺へ移されたという伝承があり、明治初年ごろまでは堂宇が残っていたらしいが、寺としての終末は安政・万延ころであったと言われている。
奥中央は阿弥陀堂で左奥が安智羅明神。

山の斜面には常福院を偲ぶ仏石が散在する。

常福院跡から見た日向畑遺跡。

常福院跡東側の阿弥陀堂。

阿弥陀堂と角間渓谷。

阿弥陀堂内部。阿弥陀仏は写真なのね。

阿弥陀堂の北に安智羅明神がある。

真田氏中興の祖といわれる真田一徳斉幸隆16才の姿を写したという木像を安置する安智羅明神。てかこれも写真。
真田家よりの祭祀料として水田1反3畝が与えられ、これが現在の明神田であるという。

安智羅明神脇の祠。

安智羅明神から見た観音堂と常福院跡。

安智羅明神から見た角間渓谷方面。
角間集落が見え、角間峠への道が通っていた。左の尾根の麓が「大手」で屋敷の掘割の形跡があるという辺りになろうか。

少し左に寄るとこんな感じ。
「松尾古城全図」にあるという「御庭跡」「今は畑になる」もこの一帯であろう。
中央奥が「大手」とすると至近に隣接といってよく、一帯が真田屋敷跡というのも分かる気もする。



日向畑遺跡の西には松尾古城尾根先端の「尾崎」に通じ、そこから尾根添いに松尾古城に登れる。また「尾崎」の北側には「上野屋敷の館」がある。

「尾崎」に通じる道。
足下は角間川で非常に急斜面。





2018、10月再訪



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