八反田城「はったんだじょう」と読むらしい。
写真は中屋敷地籍からみた八反田城の東端。主郭周辺部にあたり、現在八幡社がある。中央の赤いのは八幡社の鳥居で、ここが大手のようにも見えるが主郭の真下であり、横の(エ)の堀跡を登ったか、或は城の西に伝上原築前屋敷跡があるのでそちら側かも知れない。
中屋敷地籍。
八幡社の鳥居。
八幡社までの登り途中に二段程の平坦地がある。
八幡社の建つ所も主郭と思われる(1)の郭より若干低いので、段郭的なものを後世に切り崩し広げたものと思われる。
鳥居を振り返る。
八幡社拝殿。
拝殿前に並ぶ五つの石灯篭。
しっかり確認はしていないが、江戸中期享保のものがあった事は記憶している。
拝殿脇の段差と灯篭。「信濃の山城と館」には祠マーク?があるが確認できなかった。
八幡社東側の谷状の土手。
八幡社西側(2)郭の南端部。
左が(ア)の堀割で、この下の畑付近で(エ)の堀が交わるようだがはっきりしない。
(エ)の堀。角度を変えて撮ってみた。
さらに(2)の郭中央もでいくと(エ)の堀は殆んど分からなくなっている。
鳥居脇の畑の(エ)の堀の開口部。
大手か搦め手かは分からないが、(2)と(3)の郭の間を進むことになる。
(エ)の堀の開口部のある鳥居西側脇の畑付近。
この畑と小林家と坂井家の墓地となっているゆるやかな斜面は、一見防御の際にはネックとなりそうであるが周辺は湿地帯であったか志賀川が迫っていたと推定できる。
(ア)の堀は(1)と(2)の郭を完全に堀切っており、(2)の郭側と(1)の郭北側一部に土塁をきれいに残している。
(1)の郭北側に一部残る土塁の祠。
(あ)の堀は北端崖の竪堀状に落ちていく。
下の畑が見えるように比高があるわけではないので、当時は沼地などに覆われていたのかも知れない。
(あ)の堀の(2)の郭側の土塁。
南側から見るとこんな感じ。
主郭と思われる(1)の郭。
(1)の郭の東側、つまり八反田城最東端付近は「フチ上」と呼ばれるらしい。
「フチ上」は「淵上」と思われるので、やはり八反田城の東側突端部は湿地などで覆われていたことが想像できる。
(2)の郭。
(イ)の堀跡。
(イ)の堀跡は北側に辛うじて形跡が残る。
左手西側の(3)の郭は現在相馬家と草間家の墓地となっている。
(3)の郭の南側方向。
畑地になり先端付近には稲荷社があるそうだが侵入できなかった。
(ウ)の堀南側。
「信濃の山城と館」を見ると、左側(3)の郭と西側台地を遮断する長大な堀切となっている。
(ウ)北端の陸橋から八反田城を見る。
道路のほぼ延長が(う)の堀であるが、おそらく(う)の堀が崖下に落ち込む辺りに、東西に走る道路が開通しているのが「信濃の山城と館」と違うと思われる。
現在は写真の様相である。
(オ)の堀。
道路の為に形状は変わっているだろうが雰囲気はある。
(オ)の堀の道路東側。急斜面に堀が落ちていた様が想像できる。
(オ)の堀の道路東側からの風景。
直下には水路が通り見通しもよい。
左奥の白い建物のある山の辺りが中城峯だろうか。右の屋根の向こう辺り志賀川対岸が瀬戸城山になろう。地勢的に深く関わる城跡と考えられる。
(オ)の堀の道路西側は(ウ)の堀(右)と交差する。
つまり右が(3)の郭で左は(4)の郭である。
(4)の郭は周辺より高く、南側は絶壁となり直下に志賀川が流れる要害といえる。
郭状の数段の平地があるが櫻井家一族の墓地となっている。
(4)の郭頭頂部も櫻井家の墓地であるが、垣根の先に金比羅社があるらしいがこちら側からは行けないようだ。西側の集落から金比羅社に登る道があるのだが藪で侵入出来なかった。
南西から見た志賀川と八反田城。
中央の小山が(4)の郭。奥に中城峯も見える。
(4)の郭西側の集落への道。
この右手西側に上原築前屋敷跡と伝える場所がある。
伝上原築前屋敷。
おそらく左中央の平らな所をいっているのだとおもう。中央の林には上原家の墓地がある。
上原家墓地。
謂れが刻印されていたので失礼ながら撮影させて頂いた。
上原伊賀守は武田家譜代の小山田虎満の当初の名乗りといわれている。
八反田城の西側台地の風景。
伝承ながら上原築前もここから浅間山の煙を見ていたのかも知れない。
上原家墓地付近から見た(4)の郭。
2018、9月初訪
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